ペガサス橋及びホルサ橋の制圧
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「トンガ作戦」の記事における「ペガサス橋及びホルサ橋の制圧」の解説
第6空挺師団オックスフォードシャー&バッキンガムシャー軽歩兵連隊第2大隊D中隊は、ジョン・ハワード少佐の指揮下、6月5日の夜から6日にかけて、二つの重要な橋、ペガサス橋(当時のベヌーヴィル橋)とホルサ橋(当時のランヴィル橋)を制圧・占拠し、すぐ近くの海岸、暗号名「ソード・ビーチ」に上陸するイギリス軍本隊を待つことを目的として、カーン運河とオルヌ川の間に着陸する計画であった。これは Coup-de-Main作戦(奇襲作戦)と呼ばれたが、これが正式な作戦コード名かどうかは現在でも明らかになっていない。 主要な橋の占拠はハワード少佐が直接担当し、181名が参加して幅広い方法で準備を行い、作戦を遂行することとなった。作戦実行のために、橋は建設時の図面、およびフランスのレジスタンスとイギリス空軍が撮影した写真が用意され、それらの情報をもとに模型を作り想定演習を行った。 作戦を遂行するためには、まず斥候が歩兵小隊と共にAZ-K・AZ-N・AZ-Vの三つの降下目標地点に降下する必要があった。彼らの使命は、降下地点の安全の確保、および、本隊が降下目標とするための「ユーレカ Eureka」と呼ばれるビーコン(進路目標信号発信器)を設置することであった。 第5空挺旅団はランヴィルの北、AZ-N地点を割り当てられた。この部隊はすぐに橋の奪取に向かう計画であり、第7空挺大隊はオルヌ川沿いのル・ポールとベヌーヴィルの町を占領し、第12・第13空挺大隊はランヴィルを占領する使命を受けていた。 強行着陸部隊においては、予想される敵情に十分かつ迅速に対処するために、6機のグライダーが輸送手段として選ばれた。各グライダーはほぼ完璧にコースに乗り、着陸後すぐに戦闘行動が可能となった。ハワード少佐が指揮する、橋を占拠するための工兵を含む各部隊は、驚くほど目標の近くに着陸することができた(ドイツ軍が爆発物を橋に取り付けていた場合、これを撤去するために工兵が必要であった)。
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ペガサス橋及びホルサ橋の制圧
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6月5日夜から、ハワード少佐率いるD中隊およびB中隊はLZ-X、LZ-Y着陸地点に向かうための準備を開始した。これらの部隊はハリファックス爆撃機に曳航されたホルサ・グライダー6組に分乗し、タラント・ラッシュトン空軍基地から出発した。グライダーはメルヴィルの東、ノルマンディー海岸上空、高度1,900mで切り離された。ハリファックス爆撃機はそのままカーンに向かい、ドイツ軍の警戒を逸らすためにセメント工場の爆破に向かった。 6日0時16分、ハワード少佐および第1小隊を載せた1番機(グライダー92号)は、目標となるペガサス橋からわずか47ヤードの地点に着陸した。着陸時、最初の鉄条網を突破した時点で急停止したため、乗員は衝撃で意識不明となったが、すぐに意識を取り戻し行動に移った(もう1機のグライダーは、ハワード機のすぐ横に着陸した)。部隊の4分の1がこれら二つの橋の直近に着陸したのに対し、他の機は滑走して6名が行動不能となった。しかしながら、ドイツ軍の橋梁守備隊は、これらのグライダーを目撃しなかったか、あるいは撃墜された機だと思い、全く反応しなかった。以前にも爆撃機が墜落する際の破片の衝撃音を聞いていたためと考えられている。 イギリス兵は川の東側にある、機関銃を備えた堅牢な監視所に手榴弾を投げ入れ、攻撃を開始した。その直後に橋を攻撃した。デン・ブラザーリッジ大尉はいったん橋の西側に手榴弾を投げたあと、監視所にも手榴弾を投げ入れた。この間、数名の部下が敵の機関銃手を射殺したが、この攻撃中に大尉は首を撃たれ重傷を負い、結果的に彼はD-デイに敵の火力によって死亡した最初の兵員となった。最初の部隊が監視所と橋を攻撃している最中に第2小隊の乗る2番機が着陸し、第1小隊への助攻となった。3番機の第3小隊はそれほど幸運ではなく、着陸時に突然停止したためグライダーの胴体が外れ、12名が残骸に取り残され、1名(Fred Greenhalgh下級伍長)が近くの池にはまり溺死した。第3小隊の指揮官スミス中尉は着陸時に負傷し、さらにドイツ兵の投げた手榴弾により負傷したが、指揮を続け、数分後に戦死した。しかし彼の部下が、橋の西側の確保に成功した。これらの戦闘の間、第249野戦中隊付きの工兵が銃火を無視して橋を探索し、導火線と起爆装置を発見し、これを撤去した。ドイツ軍は明らかに橋の爆破を準備していたが、フランスのレジスタンス活動や偶然の爆発により橋が崩落することを恐れ、実際には爆破物は仕掛けられていなかった。ドイツ兵は急襲の衝撃を克服したあと、激しく反撃してきたが、その時点で敗北は明らかであった。発砲が静まったため、ハワード少佐は勝利を確信した。結果、D中隊の2名が橋梁占拠の戦闘中に戦死し、14名が負傷した。こうしてペガサス橋の安全は確保され、成功を意味する暗号「ハムとジャム(Ham and Jam)」が送信された。 ホルサ橋は、グライダー2機の2個小隊によって10分以内に損失なしで確保され、すぐに防護態勢が取られた。フォックス中尉率いる第6小隊は、最初に着陸して攻撃を開始した。しかし、この時までにペガサス橋で戦闘が起きていたので、ドイツ兵はそちらに警戒していた。幸いにも彼らの防御能力は1箇所の機関銃陣地だけであり、第6小隊が見えた時に2-3発のむだ弾を発射した後、第6小隊の正確な迫撃砲弾を受けて逃亡した。直後に第5小隊が到着したが、彼らはこの時すでに橋が確保されていることを知らなかった。もう1機の第4小隊のグライダーは、目標降下地点から約13km離れた地点に着陸した。この機の乗員は苦闘し、4名が死亡した。 ノルマンディー海岸からの上陸部隊に対しドイツ軍第21機甲師団が本格的な反攻を行った場合、上陸部隊がほぼ無防備な状況となることを防ぐため、制圧部隊はこれらの橋の占拠後、守備を強化する使命を持っていた。鹵獲した軽装甲車によりドイツ軍の反攻を阻止した。 強行着陸部隊の方は成功裏に作戦を遂行したものの、空挺降下部隊はノルマンディーの広い地域に拡散してしまった。3時頃に第7空挺大隊が到着し、援護を行った。この二つの橋の付近に集結した兵員は600名余で、迫撃砲と機関銃が行方不明となっていたが、大隊は6月6日のあいだ中、この地点を守り通した。特に第7空挺大隊のA中隊はベヌーヴィルの近くの村に拠点を置き、最も激しい戦闘を行った。 ドイツ軍の機甲部隊指揮官ハンス・シュミット少佐は、頭上でグライダーが切り離されたのを目撃し、部隊が孤立するのを恐れ、後退命令を下した。 6日の終わりには、ロヴァット卿率いる第1特殊作戦旅団の最初の小部隊が、22歳の 'Mad Piper' ビル・ミーリン二等兵の演奏するバグパイプの音色とともに到着した。彼らの使命は橋の東を援護することであった。第7空挺大隊A中隊は6日21時まで持ちこたえた。第2歩兵連隊ロイヤル・ウォーウィックシャーが海岸から上陸して、ベヌーヴィルで戦闘を継続したが、A中隊は死傷者が多かったため大隊から分離された。生存していたA中隊の20名は継続して制圧を続けた。 7日13時頃、第1特殊作戦旅団の残りが到着し、第3歩兵師団は解散した。この後も、第6空挺師団はこの地域を守備し続けた。
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