ブラームスとの親交
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「リヒャルト・ミュールフェルト」の記事における「ブラームスとの親交」の解説
ヨハネス・ブラームスは《弦楽五重奏曲 第2番 ト長調》作品111を完成させると、作曲活動を打ち切る気持ちを固めていた。だが後にミュールフェルトがウェーバーの《クラリネット協奏曲 第1番 ヘ短調》やモーツァルトの《クラリネット五重奏曲》、ルイ・シュポーアのクラリネット曲を演奏するのを聴いて、その演奏技巧や特色ある音色に霊感を受けて再び作曲に取り組むようになった。ブラームスは、ミュールフェルトと急速に顔馴染みとなって交流が始まると、親友クララ・シューマンに宛てて、このクラリネット奏者の驚異的な演奏について書き送っている。また、ミュールフェルトとの友情に感謝して、上等の銀のスプーンに銘を入れてミュールフェルトに贈った。 ミュールフェルトは、ブラームスとは、1881年より宮廷楽団員として密接に協力してきたが、個人的に音楽家同士として友情を育むのは1891年になってからであった。その結果ブラームスはミュールフェルトのために、《クラリネットとチェロ、ピアノのための三重奏曲 イ短調》作品114と《クラリネット五重奏曲 ロ短調》作品115を書き上げている。両曲とも1891年11月24日にマイニンゲンにおいて非公開の初演を迎え、《三重奏曲》はブラームス自身がピアノを演奏し、《五重奏曲》はヨアヒム四重奏団がサポートした。同年12月12日にベルリン・ジングアカデミーにおいてこれらが公開初演されると、ミュールフェルトの名は国際的なものとなり、とりわけウィーンやベルリン、ロンドンを毎年何度も訪れては演奏旅行を行うようになった。1894年にブラームスはミュールフェルトのためにヘ短調と変ホ長調のソナタを作曲すると、夏のうちにマイニンゲン公爵家の別荘があったベルヒテスガーデンにおいて両者でこの2曲の初演を済ませ、二人は1895年の初めまでに総計20回の演奏会でこれらのソナタを演奏した。
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ブラームスとの親交
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「テオドール・ビルロート」の記事における「ブラームスとの親交」の解説
ビルロートは幼いころからピアノとヴァイオリン、ヴィオラをたしなみ、外科教授として多忙な生活のかたわら、音楽会に出席したり、同好の士と室内楽を楽しんだりしていた。現存していないが、音楽評論や室内楽曲・歌曲の作曲もしている。 チューリヒ時代の1865年、当地で演奏会を開いたブラームスを、ビルロートは翌日自宅に招く。これが、ブラームスとの終生にわたる交友の始まりとなった。ブラームスは、作品ができるとビルロートに批評を乞い、二人で試演したりした。ブラームスの交響曲第2番について、「(この曲が作曲された)ペルチャッハ(Pörtschach)とは、なんと美しいところだろう」と述べたビルロートの言葉が残っている。また、1873年に完成した弦楽四重奏曲第1番、第2番は、もともとヨーゼフ・ヨアヒムに捧げられる予定だったが、このころ一時ヨアヒムとの関係が悪化したこともあって、いずれもビルロートに捧げられている。 1878年には、ビルロートはブラームスとともにイタリア旅行をした。以後二人は1882年までに3回、イタリアに旅行した。外国語に堪能なビルロートは、もっぱら案内役を務めたといわれる。 1887年にビルロートは肺炎のため一時重体に陥り、ブラームスに遺言めいた謝辞を贈るほどであった。なんとか回復したものの、心不全が残って体調はすぐれなくなり、このころからブラームスとの関係も冷え始めたようである。 1893年末、ビルロートはアバツィアで静養中、民謡についての研究にとりくんでいるときに、ブラームスに手紙で参考意見を求めた。ビルロートの素人考えを皮肉ったブラームスからの返事が届いたのは、ビルロートが亡くなる20日前のことだった。ブラームスはビルロート夫人の怒りを買い、1894年2月10日にウィーンで行われたビルロートの葬儀に出席を許されなかった。ブラームスは、街頭に立って葬列を見送ったという。 これには後日談がある。ブラームスには心残りがあったらしく、しばらくしてビルロート夫人に、ビルロートの歌曲の出版をすすめた。夫人は曲に手を加えないことを条件にこれを認めた。しかし、ブラームスはいかなる理由からか(ブラームスは自作であれ他作であれ、作曲に対して非常に厳しかった)、楽譜に手を入れてしまい、再び夫人の怒りを買って、すべての原稿を取り上げられた。こうして、ビルロートの作品は世に出ないまま失われた。 ビルロートの死から2年後、バート・イシュルでの避暑中、ブラームスは近くに滞在していたビルロート夫人を訪ねた。夫人もこれを受け、ブラームスはその孫と遊んだりして過ごした。しかし、このときブラームスはすでに死病の肝臓癌の症状が出ており、翌1897年4月に没した。 典拠管理 BIBSYS: 90745117 BNE: XX1733556 BNF: cb128171767 (データ) CANTIC: a11174481 CiNii: DA0297134X FAST: 114814 GND: 118510916 HDS: 014286 ISNI: 0000 0001 0911 4141 LCCN: n83135417 NDL: 00932337 NKC: jn20000700176 NLA: 35697640 NLG: 235871 NLI: 000020953 NLP: A18670052 NSK: 000197396 NTA: 068111061 PLWABN: 9810613382505606 RERO: 02-A003007312 SELIBR: 251098 SNAC: w67p9p2g SUDOC: 083759379 Trove: 1047196 VcBA: 495/11968 VIAF: 67256461 WorldCat Identities: lccn-n83135417
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