ブラームスとの出会い
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「アントニン・ドヴォルザーク」の記事における「ブラームスとの出会い」の解説
1874年7月にドヴォルザークは交響曲第3番、第4番他数曲を、新たに設けられたオーストリア政府の国家奨学金の審査に提出した。そして、1875年2月この奨学金が与えられることになったが、その金額(400グルデン)は当時の彼の年収(126グルデン)の2倍以上にあたる高額なものであった。この奨学金は年ごとに審査を受けるのであるが、ドヴォルザークは結局、5年間これを受け取っている。1876年ドヴォルザークは、弦楽五重奏曲ト長調 (Op.77, B.49) で芸術家協会芸術家賞を獲得する。1875年から1877年にかけて、プラハの豪商ヤン・ネフの依頼で作曲されたのが全22曲の『モラヴィア二重唱曲集(英語版)』で、「ベルリン国民新聞」はこれを「美しい乙女たちが露のきらめく良い香りの花を投げ交わしている」と激賞した。ドヴォルザークは1877年に奨学金審査のためにこの作品を提出した。審査員を務めていたブラームスはこの曲に目をとめ、懇意にしていた出版社、ジムロックに紹介した。ブラームスは紹介状に「この二重唱曲がすばらしい作品であることはあなたの目にも明らかでしょう。しかもそれらは優れた作品なのです」と書き送っている。個人的にも、1878年、ドヴォルザークはウィーンにブラームスを訪ね、翌1879年にはブラームスがプラハのドヴォルザークの許を訪ねるという具合に親しい交際が始まった。 このように音楽家としての栄光に踏み出したドヴォルザークだが、その家庭は不幸に襲われた。1877年8月に次女ルジェナが、翌9月に長男オタカルが相次いでこの世を去ったのである。彼らの冥福を祈り作曲されたのが、ドヴォルザークの宗教作品の傑作『スターバト・マーテル』であった。 『モラヴィア二重唱曲集』の出版で成功を得たジムロックは、1878年にドヴォルザークに対して、ブラームスのピアノ連弾のための『ハンガリー舞曲集』に匹敵するような『スラヴ舞曲集』の作曲を依頼した。この依頼に応えて作曲された作品集は、「神々しい、この世ならぬ自然らしさ」(ベルリン国民新聞)との絶賛を受け、ドヴォルザークの名はヨーロッパ中に広く知れわたった。このころのドヴォルザークはリストの『ハンガリー狂詩曲』をモデルにそのチェコ版を目指しており、チェコの舞曲や民族色を前面に押し出した作品を多く作曲する。また、この傾向は、そうした作品を期待する出版者や作曲依頼者の意向に沿ったものでもあった。たとえば、フィレンツェ弦楽四重奏団の第1ヴァイオリニスト、ジャン・ベッカーは「新しいスラヴ的な四重奏曲」を依頼し、ドヴォルザークはこれに応えてチェコの民族舞曲や、ウクライナ民謡「ドゥムカ」の形式を採り入れた弦楽四重奏曲第10番(1879年)を作曲している。また、『チェコ組曲』も同年の作品である。 一方、ジムロックはドヴォルザークに、管弦楽曲のピアノ編曲版を要求する。こうした細々とした委嘱作品や編曲に追われながらも、ドヴォルザークは1879年にヴァイオリン協奏曲の第1稿を書き上げてヨーゼフ・ヨアヒムの元に送り、1880年にこれを改訂、さらに1882年に再び筆を加えてこれを完成させている。有名な『我が母の教えたまいし歌』を含む歌曲集『ジプシーの歌』(1880年)が書き上げられたのもこの時期である。そして、1880年に作曲された最も重要な作品は、ドヴォルザークのスラヴ時代の精華とも言うべき交響曲第6番ニ長調である。ハンス・リヒターに献呈された。1883年、古いフス派の聖歌を主題とする劇的序曲『フス教徒』が書かれた。これに対して音楽評論家ホノルカは「敬虔なカトリック教徒のドヴォルザークが異端のフス派を描くとは」とこの作品に注目している。
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