ブラヴァツキーの死後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 09:16 UTC 版)
「ネオ神智学」および「人智学」も参照 ブラヴァツキーの死後、神智学協会は、マハトマ書簡への疑いと指導者の地位をめぐって争い分裂したが、著名な女性運動家アニー・ベサントと英国教会の教役者であったC・W・レッドビータ(1854年 - 1934年)が新たな方向性を示し、霊視による研究と霊能力開発、政治・社会活動をより重視した。ベサントは協会員に、女性参政権、菜食主義、代替医療、進歩主義教育、田園都市運動といった社会活動に積極的に参加するよう奨励し、居を構えたインドでインド独立を積極的に支援した。 後期神智学協会は救世主を求めてインドに赴き、 ヨーガ理論とその実践による霊視(clairvoyance、透視)、オーラの感知、アカシック・レコードと呼ばれる霊的な記憶の場にアクセスすることによる過去視・未来視などの霊能力の開発を強調するようになった。レッドビータは、インド・スリランカの貧しい子供たちから優れた資質を持つ者を見つけ出し、イギリスで教育を受けさせ、神智学協会のエリート、救世主として育て上げようとした。 これにより見い出されたのが14歳のジッドゥ・クリシュナムルティである。レッドビータのこの活動にはスキャンダルが付きまとっていた。レッドビータは同性愛者・小児性愛者であり、心霊術の訓練と称して少年たちに自慰行為を強要しているといううわさが流れ、数度告発された。かれはその行為について少年たちを性的緊張から解放するヨーガの訓練であると弁明した。 神智学協会のドイツ支部事務総長であったルドルフ・シュタイナーは、クリシュナムルティをキリストの生まれ変わり、救世主、世界教師とするアニー・ベサントらの動きに賛同せず、またアジアの思想を重視する協会との方向性の違いから神智学協会を離れ、1913年に「人智学協会」を設立した。 米国の神智学協会に関わっていたアリス・ベイリーは、独立して「アーケイン・スクール」(不朽の知恵、秘教占星学)を発足させた。成長したクリシュナムルティもまた、アニー・ベサントらの主張と盲目的な信者たちに疑問を抱き、1928年に自らをトップとする「東方の星教団」を解散させて神智学協会から離れた。 神智学協会は19世紀末から1920年代までのほぼ半世紀の間は、洋の東西を問わず「世界をおおうバニヤン樹」といえるほどの大きな影響力を持っていた。インドネシアにおける神智学協会の活動について研究しているデ・トレナーレによれば、神智学協会の影響力の世界的ピークは1920年前後だという。また、インドやインドネシアなどではベサントがインド国民会議派の年次会議の議長の地位にあった1917-18年ごろ頂点にあったが、1928年のクリシュナムルティの離脱を境に凋落し、ベサントの死後、1930年代には衰退に向かった。 教義の過度の神秘化、マハトマ(大師、未知の指導者)の実在性や霊能力の信憑性に対する疑惑、分派間の対立、クリシュナムルティを救世主として掲げた「東方の星教団」の解散、ナチズムとの関係性など様々な要因が重なり、第二次世界大戦以降は全体として下火になった。神智学協会の全世界の会員は1929年の時点は4万人に達したが、クリシュナムルティ離脱後、会員数は減少していった。1990年代初頭の時点で数万人になっている。
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