パイレーツ時代 (1度目)
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「ドック・エリス」の記事における「パイレーツ時代 (1度目)」の解説
1964年1月14日、19歳でピッツバーグ・パイレーツと契約。前述のセミプロチームの監督であったブリュワーがパイレーツのスカウトであったことも影響した。しかし、入団契約を結ぶ直前にエリスは自動車盗の容疑で警察に逮捕され、当初パイレーツから提示された6万ドルの契約金は最終的に2,500ドルまで引き下げられた。 契約後は傘下A級バタビア・パイレーツ(英語版)でキャリアを開始。翌1965年にはAAを飛び越してAAAへ昇格し、シーズンオフには40人枠入りを果たす。 1966年は傘下AA級アッシュビル・ツーリスツでプレーし、シーズン最終盤にはメジャー初昇格を果たしたが、メジャーでの登板機会はなかった。その後、1968年まで傘下マイナーリーグでプレーしたが、この間にエリスの薬物中毒はプロスペクトとして期待されていたことによる重圧が原因で悪化し、毎試合登板前にアンフェタミンを常用する状態になっていた。また、60年代後半からはコカインも使用していたことを後にエリス本人が認めている。 1968年にメジャー再昇格を果たし、6月18日の対ロサンゼルス・ドジャース戦(フォーブス・フィールド)でメジャー初登板。当初はリリーフとして起用されたが、8月からは先発として起用され、最終的に26試合に登板した。 翌1969年からは先発投手として起用され、この年から1974年まで6年連続で2桁勝利を記録。特に1971年は31試合に登板して19勝9敗、防御率3.06の成績を残し、同年のオールスターゲームにも選出された。また、1970年7月12日の対サンディエゴ・パドレス戦・ダブルヘッダー第1試合(サンディエゴ・スタジアム)ではノーヒットノーランを達成し(この試合に関するエピソードは後述)、開幕投手も3度(1971年・1972年・1975年)務めるなど、同じく右のエースであったスティーブ・ブラスと並んでパイレーツを代表する先発投手であった。 しかし、パイレーツ在籍中も度々問題行為を起こしており、最末期の1975年には自身の起用法を不服として拒否したことを発端にクラブハウスで同僚選手やコーチと乱闘事件を起こして罰金と出場停止の処分を受けていたほか、1973年頃には反則投球にあたるスピットボールを投げていたことを後に認めている。
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パイレーツ時代 (1998年–2004年)
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「ナッシュビル・サウンズ」の記事における「パイレーツ時代 (1998年–2004年)」の解説
1997年、サウンズが所属していたアメリカン・アソシエーションが解散し、この期間、サウンズは残りのトリプルA2リーグのうち1つに吸収された。この結果、サウンズはパシフィックコーストリーグ(PCL)に加盟した。またフランチャイズは新たなメジャーリーグ球団との提携を獲得し、ピッツバーグ・パイレーツと提携しトップ・ファームとなった。1978年の設立以来初めてロゴ、配色、ユニフォームを2年かけて段階的に新調した。 1998年、パイレーツと提携して最初のシーズンでサウンズは67勝76敗で地区最下位であった。1999年、前年より躍進し、80勝60敗となったが2位で終わった。サウンズの二塁手マット・ハワードは打席数(1:18.2)ごとの守備率 (0.982)と三振回数の少なさでリーグをリードしていた。ピッチャーのジミー・アンダーソンは勝率 (0.846, 11–2)でPCLをリードしていた。 2000年、ナッシュビルは63勝79敗となり地区で最下位であった。2001年、オールスターにも選ばれたことのある元サウンズの内野手マーティ・ブラウンが25人目の監督としてサウンズに復帰した。元サウンズ選手のサウンズ監督就任はこれが初めてのことであった。サウンズは64勝77敗で3位となり、プレーオフから外れた。外野手タイク・レッドマンは三塁打10回でアイオワのロス・グロードと共にリーグ首位となった。6月30日、レッドマンはサウンズ初のサイクル安打打者となった。2002年、72勝71敗でディヴィジョン3位となった。 2003年4月7日のシーズン初試合でアルバカーキ・アイソトープスと対戦した際、右投げのジョン・ワズディンがナッシュビル・サウンズ史上初の完全試合投手となった。4対0でサウンズが勝利し、PCL史上2番目の9イニング完全試合となった。この年、トレント・ジェウェット監督はサウンズを81勝62敗に導いた。イースタン・ディビジョンで優勝し、パシフィックコーストリーグに加盟後初めてポスト・シーズンに出場することになった。ナッシュビルはアメリカン・カンファレンス決勝戦でアルバカーキと対戦し、3勝1敗で勝利した。ベスト・オブ・ファイブ・チャンピオンシップでサクラメント・リバーキャッツと対戦し、3連敗した。 2004年、63勝79敗で地区最下位となり、フランチャイズ契約が終わることになった。シーズン初頭、 ジェイソン・ベイがピッツバーグに復帰する前にナッシュビルで4試合出場した。翌シーズン、彼は新人王に選ばれた。ナッシュビルに属したことのある選手でこのような賞を受賞したのはこれで2人となった。2004年5月21日、キャッチャーのJ・R・ハウスは2001年のレッドマンに続きサウンズ2人目のサイクル安打打者となった。
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