ピッツバーグ・パイレーツ時代・引退まで(1947年)
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「ハンク・グリーンバーグ」の記事における「ピッツバーグ・パイレーツ時代・引退まで(1947年)」の解説
1947年 タイガースは年俸の減額を提示するが、グリーンバーグはこれを受け入れなかったため、交渉が決裂した。これを機にグリーンバーグは引退を考えるようになり、他方でタイガースは1月18日に彼をピッツバーグ・パイレーツにトレードした。パイレーツは、グリーンバーグに引退を思い止まらせるべくナ・リーグ史上初となる10万ドルの年俸を提示し、フォーブス・フィールド (当時のパイレーツの本拠地) のレフトスタンド側にブルペンを建設して、レフトスタンドまでの距離を短縮する改修を行った。このレフトスタンドは「グリーンバーグ・ガーデン (Greenberg Garden) 」と名付けられた。また、当時パイレーツの共同オーナーであった歌手のビング・クロスビーは、コメディアンのグローチョ・マルクスと共にグリーンバーグを歓迎する「Goodbye, Mr. Ball, Goodbye」という曲を製作した。 同年パイレーツでは125試合に出場して25本塁打を放ち、リーグ最多の四球を記録したが、一方で打率.249に終わり往年の強打は発揮されなかった。しかし、グリーンバーグの存在は当時メジャー2年目のシーズンを迎えたラルフ・カイナーに多大な影響を与え、カイナーにとっての良き指導者となった。カイナーについて、グリーンバーグは以下のようなコメントを残している。 "Ralph had a natural home run swing. All he needed was somebody to teach him of the value of hard work and self-discipline. Early in the morning on off-days, every chance we got, we worked on hitting." 「ラルフは、天性のホームラン・ヒッターだ。彼が必要としていたのは、懸命にプレーすることと自己鍛錬の重要性を説ける誰かである。オフの日は朝早くから、チャンスさえあれば、我々は打撃練習に取り組んだ。」 (和訳) 9月29日、パイレーツは契約を解除し、この年限りで現役を引退した。
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