マイナーリーグ/パイレーツ時代
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「ポール・ウェイナー」の記事における「マイナーリーグ/パイレーツ時代」の解説
1923年にパシフィックコーストリーグのサンフランシスコ・シールズと契約し、外野手に転向。1925年に打率.401・280安打・75二塁打を記録し、10月13日にピッツバーグ・パイレーツへ移籍。1926年4月13日のセントルイス・カージナルスとの開幕戦に代打で出場してメジャーデビューを果たし、5月以降右翼のレギュラーに定着。8月26日のニューヨーク・ジャイアンツ戦で6打数6安打を記録するなど、ルーキーながら打率.336・180安打、共にリーグトップの出塁率.413・22三塁打の好成績を挙げる。 1927年は弟ロイドがデビューしチームメイトとなる。6月3日のフィラデルフィア・フィリーズ戦から6月19日のシカゴ・カブス戦にかけてメジャー記録の14試合連続長打を達成するなど、いずれもリーグトップの打率.380・131打点・237安打・18三塁打・342塁打、ロジャース・ホーンスビーに次ぐリーグ2位の出塁率.437・OPS.986と前年よりも更に成績を上げて首位打者・最多打点の二冠を獲得し、チームのリーグ優勝に大きく貢献。『殺人打線』と称されたニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは打率.333を記録するが、チームは4連敗で敗退。弟と同じくこれが自身最初で最後のワールドシリーズ出場となった。MVPの投票ではフランキー・フリッシュを6ポイント差で抑えて受賞を果たした。 1928年はリーグトップの50二塁打・142得点、いずれもリーグ2位の打率.370・19三塁打・出塁率.446を記録。1929年は契約が拗れてスプリングトレーニングを棒に振るなど出遅れるが、キャリアハイの15本塁打。1932年は5月20日のカージナルス戦でメジャー記録の1試合4二塁打。全試合出場を果たし、球団記録で当時歴代3位(2021年現在は5位)の62二塁打を記録するが、出塁率は.397とデビュー以来初めて.400を割った。1933年は2年連続の全試合出場、第1回のオールスターゲームにも選出されたが、打率.309とそれまでのキャリアワーストの数字に終わった。1934年はいずれもリーグトップの打率.362・217安打・122得点、リーグ2位の16三塁打・出塁率.429を記録して復活し、7年ぶりの首位打者のタイトルを獲得。MVPの投票では30勝を挙げたディジー・ディーンに次ぐ2位にランクインした。1936年は打率.373で2年ぶりの首位打者を獲得。1937年も打率.354・219安打を記録するが、経営陣からの要請でアルコールを断った1938年は.280に終わり、ルーキーイヤーから維持していた打率.300以上は12年で途絶えた。1940年は若手の台頭もあって出場機会が減少し、12月5日に解雇された。
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