マイナーリーグのドラフト制度設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 22:38 UTC 版)
「1957年のメジャーリーグベースボール」の記事における「マイナーリーグのドラフト制度設立」の解説
コミッショナーのフォード・フリックは、両リーグオーナー会議で7年の任期でコミッショナーの職に再任されると、この時期に緊急に取り組むべき課題となっていた新人選手の契約金の高騰問題について打開策を検討していた。1947年に決めた第一次ボーナス規制は契約金6,000ドル以上の選手は1年間ファームチームにいてメジャーに昇格できなければ翌年のトレード会議での選抜の対象となる、とするものであったが効果なく1950年に廃止。1952年に4,000ドル以上の契約金を得た選手は入団後にメジャー25名のメンバーに2年間連続して加えなければならない、とする第二次ボーナス規則を定めたが、これも効果なくもはや廃止することで新しい制度を作ることになった。 そこで契約金の高騰を防ぐための手段として新たにマイナーリーグ選手の公開選抜(ドラフト)を提議しフォード・フリックは制限なしの選抜制度を提案した。ところが議会の下院から「大リーグの球団が1人の選手をマイナーリーグに置いてその身柄を拘束できるのは7年とし、そのうち前半の4年は選抜を受けないようにすること」とする主張が出て、議論百出の結果、パシフィックコーストリーグ(この当時はAAA級に位置付けされていない)と他のAAA級・AA級は4年以上、A級で3年以上、B級・C級・D級は2年以上在籍する選手を対象に選抜することで、1957年12月のオーナー会議で正式に採択されてマイナーリーグのドラフト会議の設置が決まった。この時には大リーグ球団が選抜する場合の選手の代価は所属するリーグのクラス(AAA級~D級)に関係なく一人当たり2万5,000ドルとし、1つの球団が選抜する選手の数は無制限とすることも決まった。 しかし翌1958年には1年目のシーズン終了後からドラフト会議の対象となり、その代価は大リーグ球団が選抜する場合は一人当たり1万5,000ドル、3A級の場合は7,500ドル、2A級の場合は6,000ドル、A級の場合は4,000ドル、B~C級の場合は3,000ドルとすることに改正された。このマイナーリーグのドラフトの始まりは7年後にメジャーリーグにも影響を与えた。 なお1957年12月のオーナー会議で大リーグ選手協会からそのシーズンの6月15日まで大リーグの支配下選手名簿の載った選手の最低年俸は従来の6,000ドルから7,000ドルにするという要求があり、この増額要求を認め、またトレードに際して移動費ほかの増額も決められて、翌年2月のオーナー会議で新しい選手の年金プランも承認された。 高額の契約金を得て入団する選手をボーナスプレーヤーと呼ばれたが、しかし1958年に全米大学運動協会が調査したところ1948年から10年間でボーナスプレーヤーとしてプロ入りした大学生47名のうち、この年現在でメジャーリーグに在籍する者は13名、マイナーリーグに在籍する者は13名で、残る22名はすでに野球を離れていた。
※この「マイナーリーグのドラフト制度設立」の解説は、「1957年のメジャーリーグベースボール」の解説の一部です。
「マイナーリーグのドラフト制度設立」を含む「1957年のメジャーリーグベースボール」の記事については、「1957年のメジャーリーグベースボール」の概要を参照ください。
- マイナーリーグのドラフト制度設立のページへのリンク