ハワイのキリスト教化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 10:37 UTC 版)
「ハワイの宗教」の記事における「ハワイのキリスト教化」の解説
「ハワイの歴史#ハワイ王国の隆盛」および「en:List of missionaries to Hawaii」も参照 アメリカやフランス、イギリスといった国々のキリスト教各宗派がハワイなど太平洋の島々で宣教を始めたのは18世紀末からである。この頃、多くの島々では首長を頂点とした社会階層(首長制社会)が形成されつつあった。派遣された宣教師はまず首長をキリスト教に改宗(英:Christianization)させることでその統治下にある人々も改宗させていった。首長もその地位を確固たるものにすべく宣教師の協力を必要としていた。こうしてハワイ、タヒチ、トンガといった島々では、キリスト教を国教とする王国が成立していった。 キリスト教の到達に先立ち、ハワイ王国では極めて重大な変化が起こっていた。1819年、カメハメハ1世(大王)の後を継いで即位した長男のカメハメハ2世は、長くハワイの人々が守ってきたカプ制度を廃止した。カプ制度は聖と俗を分けるさまざまな禁忌を定めていたが、それは人々に神々の加護を約束しマナの衰えを防ぐ目的のものであり、社会的な秩序の維持を支えるものでもあった。その年の5月、前王の服喪のためカプが一時的に中止されていたが、11月、カメハメハ2世は大王の妻のカアフマヌ(執政)と母のケオプオラニ(英語版)の説得に応じ、カプの全廃を布告して、この時に現在「クアモオ墓地」と呼ばれる場所で戦いがあり、カメハメハ2世側が勝利している。ケオプオラニは前王の妃の一人だったカアフマヌに協力したのだが、カアフマヌや側近らはカフナ(神官)やヘイアウ(神殿)の権威を潰すことでカメハメハ2世の権力を脅かす他の族長の権力も抑えようとしたと考えられている。カプによって生活上さまざまな拘束を受けていた人々がカプの廃止を受け入れたことで、神の存在は否定され、カフナは拒絶され、ヘイアウは破壊され、宗教的な儀式は中止された。それは社会や秩序を維持してきた法の喪失でもあった。キリスト教宣教師が到着したのは、古来からの信仰が失われたちょうどこの時期だった。古来の信仰が禁止されていたところに、キリスト教が急速に浸透していった。 1820年、まずプロテスタントの会衆派影響下のアメリカ海外伝道評議会の宣教師がハワイに到着した。その後、1827年にフランスからカトリック教会の神父が到着したが、すでに宗教的にも社会基盤や政治の面からもプロテスタンティズムが浸透しており、カトリックは布教を許されず、1837年にはカメハメハ3世によってカトリック信仰の禁止が布告された。禁止令は2年後に解除されてカトリックの布教が始まったものの、ハワイではこんにちもプロテスタントの方が多くの人々に信仰されている。1850年には末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会)が活動を開始した。さらに1862年には英国公教会が到着したものの出足が遅かったため信徒を増やすのは困難であった。その後もプロテスタント宗派がいくつか活動した。アメリカ海外伝道評議会については、ハワイ伝道教会 (Hawaiian Evangelical Association) が設立された1850年代から1860年代の頃にハワイへの支援を終了し、以後はハワイ伝道教会に属するハワイ人の牧師が各地の教会の監督に当たっている。 キリスト教の宣教を進める過程で、宣教師やその妻などによる文字教育も進められていった。人々が現地語に翻訳された聖書を読めるようになることが目的であったが、人々は読み書きができるようになった代わりに古来の口承文学から離れていった。こんにち知られているハワイの伝統的な文化についての情報は、その多くが、宣教師から教育を受けたハワイ人のキリスト教徒が記録したものである。宣教師はまた、カフナが行う呪術やアウマクア(祖先神)信仰といった古くからの伝統文化を異教的だとして禁止した。しかしキリスト教徒となってからも古来からの信仰を持ち続ける人々もいた。
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