ニクソンショックまでの動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 02:14 UTC 版)
「ニクソン・ショック」の記事における「ニクソンショックまでの動き」の解説
ニクソン大統領の声明までの動きは以下の通りである。 2月11日-ジョン・コナリーが米国財務長官に就任。3か月後の米銀行家協会主催の国際通貨金融会議にて「ドルを切り下げることも金価格を変えることも考えていない」と語る。しかし、ニクソンとコナリーはいずれ金交換停止に踏み切らざるを得ないとして同時に物価賃金統制令を実施することで合意していた。すでにこの頃には、ニクソン政権へ失業とインフレに対する無策の不満が高まっていた。 6月29日-コナリー財務長官は記者会見で「賃金物価監視委員会は設置しない」「賃金・物価の直接統制はしない」「減税はしない」「財政支出の追加はしない」と言明する。しかし、財務省の特別チームがドルと金との交換停止実行計画を練り上げていた。この特別チームは、ポール・ボルカー 財務次官、ジョン・ペティ財務次官補、ウィリアム・デールIMF理事(米国代表)の3名で、金交換の停止のメカニズム、必要なドルの切り下げ幅、相手国に求める市場開放策、通貨制度の改革案を盛り込んでいた。この時に輸入課徴金の創設は入れていなかった。自由貿易主義の原則からは大きく外れるものであったからだが、コナリーが後に政治的判断で追加して、ボルカー財務次官が自国の保護主義で論理的に矛盾しているとして強く反対したがコナリーは押し切った。 7月10日-日本で経済学者が集まった為替政策研究会で円の小刻み切り上げを提唱。 7月20日-日銀が公定歩合を0.25%引き上げ。 8月初旬-ニクソンにコナリーから包括的な新経済対策の提案が渡される。しかし8月は議会が休会中なのでニクソンは9月に実施する予定にした。この頃に米国上下両院国際通貨分科会が報告を出して、ドルの切り下げ、主要国との平価調整、金交換の停止、ドルの変動制移行などの通貨政策の選択肢を挙げている。 8月 9日-前週にフランスでドル売りが加速し、週明けに投機が再燃した。 8月13日-英国が30億ドルの金交換を要求。この日にキャンプ・ディビッドの山荘に極秘に16名のスタッフをニクソンは集めた。ニクソン、コナリー以外にはアーサー・バーンズFRB議長、ポール・マクラッケン大統領経済諮問委員会(CEA)委員長、ジョージ・シュルツ 行政管理予算局長、ポール・ボルカー財務次官らが顔を揃えた。会議で新政策の骨子が出された後に、ドルと金との交換停止に異を唱えたのがバーンズFRB議長であった。しかし大勢は賛成で結論が出された。会議は当日午後3時15分から延々4時間にわたったと言われる。スタッフの間では7月下旬には新経済政策について立案作業が始まっていたが、まさか8月13日に緊急会議で決定して発表されるとは予想していなかった。その後にはワーキングペーパーを作成するための作業チームが3班編成されて、それを基に大統領スピーチライターのサファイア―が演説草稿を書きあげた。その作業チームには「賃金物価凍結」にはマクラッケン、「減税」はシュルツ、「金交換停止と輸入課徴金」はコナリーとボルカ―が担当した。そして翌日の土曜日の夜明け前に演説草稿が出来上がった。 この会議のことはロジャーズ国務長官やレナード国防長官には事前に知らされず、二人が知ったのは翌日の午後であった。 8月14日-市場の混乱で日銀のドル買いがこの日だけで1億ドルに達し、前年末の外貨準備高が44億ドル、それが7月末で79億ドルで、すでにこの日で軽く80億ドルを超えていた。 8月15日-米国東部標準時午後9時にホワイトハウスからニクソン大統領が新経済政策を発表。 8月16日-日本時間午前10時にニクソン声明を受ける。佐藤栄作首相は10分前にロジャーズ国務長官より電話連絡を受ける。市場はすでに開いた直後であった。至急に大蔵省で緊急幹部会が開かれて、鳩山威一郎事務次官は緊急措置として市場の閉鎖を、同期の柏木雄介顧問は市場の開放をそれぞれ主張して甲論乙駁の末、市場を開け続けることになった。この日だけで日銀は6億ドルの平衡買いを行い、東証株価は210円50銭安(8%減)となった。一方、13時間遅れのニューヨーク市場ではダウ平均が32.93ドル上昇してそれまでの最大の上げを記録していた。米国民は諸手を挙げて新政策を歓迎していた。
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