ドゥカティ時代 (2011-2012)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:02 UTC 版)
「バレンティーノ・ロッシ」の記事における「ドゥカティ時代 (2011-2012)」の解説
2011 チェコGP後の2010年8月15日、7年間在籍したヤマハと袂を分かち、翌2011年から2年の契約でドゥカティに乗ることが発表された。チーフメカニックのジェレミー・バージェスを引き連れての移籍であった。チームメイトはホンダ時代にも一緒だったニッキー・ヘイデン。ロッシは2010年11月9日にバレンシア・サーキットで初めてドゥカティ・デスモセディチをテストした。1999年以来のイタリア製バイクであった。前シーズンの肩の傷は、マレーシアでのシーズン前テストに備えるためオフに手術を行った。ドゥカティは最初のテストから2回目のマレーシアテストまでにマシンを改善できず、ケーシー・ストーナーのホンダから1.8秒以上後れを取り、ロッシにとっては不満であった。 開幕戦カタールGPは7位に終わり、ウェットレースとなった第2戦スペインGPでは2位争い中に転倒、ケーシー・ストーナーを巻き込んでリタイヤに追いやるミスを犯すが、自身は5位でレースを終えた。続くポルトガルGPも5位に終わるが、第4戦フランスGPでは移籍後初となる3位表彰台を獲得する。これはダニ・ペドロサとマルコ・シモンチェリが接触、ペドロサはリタイアしシモンチェリはライドスルーのペナルティを受けたための結果であった。これ以降はトップ争いには絡めない状況が続き、第7戦ダッチTTからは翌2012年シーズン用の1000ccプロトタイプマシン(デスモセディチGP12)に従来の800ccエンジンを積んだニューマシン「GP11.1」を投入したが、事態が大きく好転することはなかった。完走はするものの表彰台に上ることはできず、第15戦日本GPではホルヘ・ロレンソ、ベン・スピーズと接触しシーズン初のリタイアを喫した。この接触でロッシは指を骨折した。続く第16戦オーストラリアでもレース中盤にクラッシュしてリタイアした。第17戦マレーシアでは予選を9位で通過した物の、決勝では2周目に転倒したマルコ・シモンチェリがコーリン・エドワーズのマシンに激突、その後を走っていたロッシもシモンチェリの頭部に衝突した。シモンチェリはこの事故による負傷で死亡し、レースはキャンセルとなった。最終戦のバレンシアGPでもロッシは転倒したアルバロ・バウティスタに巻き込まれ、ヘイデン、ランディ・ド・プニエと共にリタイアする。 結局ロッシはGPデビュー以来初めて優勝のないシーズンとなり、年間ランキングも最高峰クラス自己最低の7位に沈んだ。 2012 2012年シーズンも開幕戦カタールGPで10位、第2戦スペインGPで9位、第3戦ポルトガルGPで7位と、スローペースで始まったが、レインコンデションの第4戦フランスGPで2位に入る。レース序盤はテック3のアンドレア・ドヴィツィオーゾ、カル・クラッチローと3位を争ったが、両名ともトラブルから脱落し、ロッシが表彰台を獲得した。第6戦イギリスGPでは最初のフリープラクティスで最速タイムを記録したが、決勝では9位に終わった。その後も状況は好転しないままであったが、8月に2013年は古巣のヤマハへ復帰することを発表する。第13戦サンマリノGPでも2位に入ったものの、結局この2位2回がドゥカティでの最高位となり、2年間勝利を挙げられないままドゥカティを去ることになった。
※この「ドゥカティ時代 (2011-2012)」の解説は、「バレンティーノ・ロッシ」の解説の一部です。
「ドゥカティ時代 (2011-2012)」を含む「バレンティーノ・ロッシ」の記事については、「バレンティーノ・ロッシ」の概要を参照ください。
ドゥカティ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:58 UTC 版)
「ロリス・カピロッシ」の記事における「ドゥカティ時代」の解説
2003年、カピロッシはMotoGP新規参戦のドゥカティワークスに移籍した。4ストローク990ccのドゥカティ・デスモセディチGP3を駆り、開幕戦日本GPでいきなり3位表彰台に立ち、第6戦カタルニアGPでチームに初勝利をもたらした。年間ランキングでは4位を記録した。 翌2004年シーズン用のデスモセディチGP4は最高速は速いものの安定性に問題を抱え、表彰台は僅か1回でランキング9位に沈んだ。 2005年はタイヤをミシュランからブリヂストンに変更。新しいパッケージはシーズン後半に強さを見せ、第12戦日本GP、第13戦マレーシアGPと2連勝を遂げた。しかし第15戦オーストラリアGPでの転倒で肺にダメージを受け2レースを欠場、年間ランキングは6位に留まった。 チーム在籍4年目の2006年シーズンが、カピロッシにとってMotoGPでのベストシーズンとなった。開幕戦スペインGPを制し、その後もコンスタントに上位フィニッシュを続けて、第6戦イタリアGP終了時点ではニッキー・ヘイデンと同ポイントで首位に並んでいた。しかし第7戦カタルニアGPのスタートで多重クラッシュに巻き込まれて胸を強打、痛みを押して出場した第8戦ダッチTTも15位に終わり、チャンピオン争いで大きく後れを取った。第11戦アメリカGP終了時点ではランキング5位にまで沈んでいたが、第12戦チェコGPでシーズン2勝目、第15戦日本GPでもてぎ2連覇となる3勝目を挙げるなど調子を取り戻し、最終的には年間ランキング3位を記録した。 レギュレーションが変更されエンジン排気量が800ccに縮小された2007年、新たに迎えたチームメイトのケーシー・ストーナーがシーズンを席巻しチャンピオンに輝いた一方、カピロッシはもてぎ3連覇となる第15戦日本GPでの勝利が唯一となり、ランキングは7位に終わった。
※この「ドゥカティ時代」の解説は、「ロリス・カピロッシ」の解説の一部です。
「ドゥカティ時代」を含む「ロリス・カピロッシ」の記事については、「ロリス・カピロッシ」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からドゥカティ時代を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からドゥカティ時代 を検索
- ドゥカティ時代のページへのリンク