ドゥカートの普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/24 09:08 UTC 版)
1400年代、西ヨーロッパの国際的な貿易商たちは業務で用いる通貨として、フローリンよりもドゥカートを好むようになっていった。統治者が貨幣を改める際、殆どの場合ドゥカートがモデルとして利用された。マムルーク朝のアシュラフィ(英語版)、オスマン帝国のアルトゥン(altun)、カスティーリャ王国のドゥカート等がその例として挙げられる。 マクシミリアン1世の貨幣改革により、1511年にオーストリアでのドゥカート金貨の鋳造が始まった。この金貨は1857年に法定通貨としての地位を失うが、オーストリアは第一次世界大戦の影響で1915年に終了するまでドゥカートを貿易鋳貨(英語版)として鋳造し続けた。また、それ以降も「1915」の銘の入ったドゥカートの再鋳造を現在に至るまで続けている。だが、スペインのアメリカ大陸植民地で豊富な銀資源が発見されると、スペインドル(英語版)が国際貿易で用いられる支配的な通貨としてドゥカートに取って代わった。 1913年頃、ドゥカート金貨の価値は「9シリング4ペンスと同等、または2ドルより若干多い。ドゥカート銀貨はこの半分の価値」であるとされた。現代においても、いくつかの国の造幣局は投資用やコレクション用のドゥカートを鋳造・販売している。
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