ティコの宇宙モデル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 06:56 UTC 版)
「ティコ・ブラーエ」の記事における「ティコの宇宙モデル」の解説
詳細は「ティコ体系(英語版)」を参照 ティコはコペルニクスを賞賛し、デンマークで初めてコペルニクスの理論を教えたが、自身が基盤を置いていたアリストテレス物理学(英語版)の基本法則とコペルニクス理論を整合させることができなかった。また、彼はコペルニクスが理論を構築する上で使用した観測データに対しても批判的であり、それが大きな誤差範囲を持っていることを正しく認識していた。ティコはコペルニクス体系の代わりに、「地球・太陽中心(geo-heliocentric)」体系を提案した。これは太陽と月が地球を周回し、同時に惑星が太陽を周回するというものであった。ティコの体系はコペルニクス体系と同じ観測・計算上の利点を持ち、またどちらの体系も金星の満ち欠けという観測上の事実(当時まだガリレオ・ガリレイによってこれが発見される前であるが)と整合させることもできる。ティコの体系は、古いモデルに不満を抱きつつも太陽中心説と地動説を受け入れたがらない天文学者たちに安全な立ち位置を提供した。そして1616年に、ローマ教皇庁が太陽中心説は哲学と聖書の双方に背反しており事実とは関係しない計算上の利便性のためにのみ議論可能であると宣言すると、ティコ体系はかなりの支持を獲得した。ティコ体系はまた、重要な革新をもたらした。純粋な天動説(地球中心モデル)とコペルニクスが打ち出した純粋な地動説(太陽中心モデル)がいずれも惑星を軌道上で動かすために、回転する透明な球という考え方に頼っていた時代に、ティコの理論はこのような球を完全に排除した。ヨハネス・ケプラーや他のコペルニクス派の天文学者たちはティコに太陽中心モデルを受け入れさせようと説得を試みたがティコはこれを拒否した。ティコによれば、自転(rotating)し、公転(revolving)する地球という考え方は「全ての物理的真実のみならず、最も重視すべき聖書の権威にも違反している」ものであった。 物理的には、ティコは地球は動き続けるためには遅く、重すぎると考えた。当時受け入れられていたアリストテレス物理学に従うと、天空(the heaven、その動きと周期は継続的であり永続的である)はエーテル(または第5元素、quintessence)から作られていた。この物質(substance)は地球上には存在しないが、軽く、強固で、変化せず、自然状態は円運動をしているものであった。対照的に、地球および地球上の物質は重く、自然状態では静止している物質で構成されているものであった。従ってティコは、地球は「動き難い」物体("lazy" body)であり、たやすく移動させられないものであると主張した。ティコは日々太陽や星々が昇りそして沈むことはコペルニクスが主張するように地球の自転によって説明することも可能であると認めていたが、なお このような高速の運動を、極めて重く、密度が高く、不透明である地球に帰属させることはできない。それは空そのものの動きに由来するのである。その形状、精緻さ、そして不変性は、永続的かつ高速の運動により適うものである。 としていた。星に関する事項について、ティコはまた、もし地球が太陽の周りを周回しているならば、半年間の間に地球の位置変化によって恒星に対する角度が変化し、年周視差が観測可能なはずだと考えた(この年周視差は実際に存在する。しかし、それはあまりにも小さく、1838年にフリードリヒ・ベッセルがはくちょう座61番星に0.314秒角の視差を発見するまで検出されなかった。)。実際の観測で恒星に年周視差が観測されないことについてのコペルニクス派の説明は、地球が公転で移動する距離をほとんど無意味にするほど恒星が地球から遥か遠方に存在するためであるというものであった。しかし、ティコはこの説明が別の問題を引き起こすことを指摘した。それによれば、星々は肉眼で小さく見えているが、ベガのようなより目立つ星々はかなり大きく、より小さなポルックスのような星々よりも大きく見え、ポルックスもその他の多くの星々よりは大きく見える。ティコは典型的な恒星の大きさが1分角であり、より目立つ星々はその2倍から3倍の大きさであると確信していた。彼はコペルニクス派の天文学者クリストフ・ロスマン(英語版)に宛てた文章で、基本的な幾何学を用いてこの検出不能な年周視差を仮定すると、コペルニクス体系における星々までの距離は太陽から土星までの距離の700倍以上でなければならないことを示した。さらに、それほど遠い星がなお実際に空に見えるような大きさで観測されるためには、平均的な星々の大きさが超巨大-少なくとも(コペルニクス体系における)地球の軌道よりも大きく、もちろん太陽よりも遥かに巨大であると想定するしかないことを示した。またティコは、最も大きな星々はそれよりもさらに大きくなければならないこと、そして年周視差が誰もが考えるよりもさらに小さいとすれば、星々はさらに遠くにあることになり、それを認めるならば星々の大きさは際限なく大きく想定しなければならないことを指摘した。そしてティコは 幾何学的にこれらのことを演繹するとよろしいでしょう。その帰着によって、この(地球が動いているという)仮定にどれほど多くの不条理が伴っているかあなたにはわかるでしょう(他の人々は言うまでもありません)。 と述べている。コペルニクス派はティコの幾何学的批判に対して、巨大な遠い星々という考えは不合理に感じられるかもしれないが、そうではない。創造主が望んだのなら、主は被造物をそのように大きく作ることができるのだという宗教的な反応を示した。事実、ロスマンはこのティコの意見に次のように答えた。 (平均的な星が地球の公転軌道)全体と同じ大きさを持つことの何がそこまで不合理なのでしょうか?これの何が主のご意思に反しているというのでしょうか。あるいは主の本性によってそれは不可能だというのでしょうか。それは無限の自然によって許容されないのでしょうか?あなたがこのことから何等かの不条理を推論したいのであれば、それはあなたによって完全に証明されなければなりません。第一印象で低俗であるように見えるこれらの見解は簡単に不合理と咎めることはできません。実際、主の叡智と尊厳は皆が理解するよりも遥かに大きなものだからです。宇宙の広大さ、星々の巨大さをあなたの思案した通りにするのが良いでしょう-それはなお、無限の創造主に見合ったものではないでしょう。王が偉大であるほど、宮殿もその尊厳に相応しい大きさと偉大さになります。あなたはどのくらい偉大な宮殿が神に相応しいとお考えですか? 宗教はまた、ティコの地球中心体系においてもまた役割を果たした-彼は制止している地球を描く中で聖書の権威を引用した。彼は聖書の議論を単独で使用することは滅多になく(彼にとってそれらは地球の運動についての考えにおいてあくまで二次的な意義のものであった。)、時と共に彼は科学的議論に集中するようになった。とはいえ、彼は聖書の議論を真剣に受け止めた。 ティコの1587年の地球・太陽中心モデルはポール・ウィチシュ(英語版)やレイマルス・ウルスス(英語版)、ヘリジオス・ロスリン(英語版)、そしてダヴィド・オリガヌス(英語版)のような他の天文学者たちの地球・太陽中心モデルとは異なり、火星と太陽の軌道が交叉していた。これは、ティコが地球から火星までの距離が(火星が太陽と反対の空にある時)、地球から太陽までの距離よりも近いと考えるようになっていたためである。ティコは火星には太陽よりも大きな日周視差があると考えるようになったため、このように信じた。だが、1584年の同僚の天文学者ブルカエウス(Brucaeus)への手紙において、1582年とは反対に彼は火星が太陽よりも遠くにあると主張した。これは火星が日周視差をほとんど、または全く持たないという観測結果を得たためである。彼は、火星までの距離が太陽までの距離の3分の2しかないと予想されるためにコペルニクスのモデルは受け入られないと発言した。しかし、彼は空において太陽の反対側にある火星は太陽よりも地球に近いという見解を後からはっきりと変更したが、明らかに火星の視差について認められる何等かの観測上の証拠は存在しない。このような火星と太陽の軌道の交叉は、透明な個体の天球が存在したとすれば太陽と火星があるべき位置に侵入できないため、それが存在し得ないことを意味していた。恐らく、この結論は別の出来事、1577年の彗星が月よりも遠いという結論からも支持されていた。なぜならば、この彗星の日周視差は月よりも小さく、故にそれが軌道を通過する間にいくつもの透明の天球を通過する必要があったためである。
※この「ティコの宇宙モデル」の解説は、「ティコ・ブラーエ」の解説の一部です。
「ティコの宇宙モデル」を含む「ティコ・ブラーエ」の記事については、「ティコ・ブラーエ」の概要を参照ください。
- ティコの宇宙モデルのページへのリンク