チェックポイント・チャーリーの対決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 05:09 UTC 版)
「ベルリンの壁」の記事における「チェックポイント・チャーリーの対決」の解説
「チェックポイント・チャーリー」を参照 1961年10月17日、ソ連共産党第22回大会でフルシチョフ首相は年末までに東ドイツとの平和条約を結ぶとの主張を取り下げた。事前に相談を受けなかったウルブリヒト東独第一書記はこのソ連の方針変換に不満であり、抗議の意思をこめて東ベルリンでの境界線での入国審査の厳格化という実力行使に訴えた。西側の文民公務員に対し身分証明書の提示を求めるようになったが、この対応は4ヵ国協定に違反しており、ソ連からもマリノフスキー国防相名で、東ドイツはソ連の許可なしに境界線において何も変更してはならない、と通達を出していた。 10月22日、アラン・ライトナー米国公使夫妻がチェックポイント・チャーリーを通過しようとしたときに身分証明書の提示を要求された。ライトナー公使はこれを拒否し、警備隊と押し問答の末に強引に検問所を突破して往来の自由を主張するなどした。その後、クレイ将軍は本国のラスク国務長官の許可の下、チェックポイント・チャーリーでの外交官の示威行動を行い、米軍兵士の護衛付きで外交官が検問所を突破するなどした。警備隊は当初は特段強行に阻止するなどはしていなかったが、10月27日、示威行動を行った米国側が引き返そうとしたところ、突如としてソ連軍が戦車を検問所前まで進めた。米軍も待機していた戦車を出動させ、両軍は検問所を挟んでにらみ合った。 クレイ大将は実力行使も辞さずの構えだったが、ケネディは西側諸国間でのベルリン問題の意見の相違の調整で苦しんでいた時期であり、一検問所でのトラブルを大きくする余裕はなかった。一方フルシチョフは、壁の建設の時点でのケネディのシグナルから米国がこれ以上の行動に出ることは無いと確信しており、報告を聞いても「戦争なんて起こる訳はない」と考えていた。ケネディとフルシチョフは極秘で連絡をとり、一触即発の状態は20時間ほどで解消された。米軍側を主導したクレイ大将はその後本国に呼び戻された。またフルシチョフも米・東独間の平和条約締結案を正式に取り下げたうえで、ウルブリヒトに対しては「特にベルリンにおいて、状況を悪化させるような行動は避けよ」と改めてくぎを刺した。 この事態は「(ベルリン危機(英語版))」と呼ばれ、後に「米ソの最初で最後の直接武力対決の舞台」と言われた。 この事件以降、壁の存在は両陣営の武力衝突を回避し、冷戦の状態を維持する役割を果たすことになった。実際にケネディも「(壁は)非常によい解決法というわけではない、が、戦争になるよりはずっとましだ」と、壁の存在について容認する発言をしていた。 ベルリン駐在の米国外交官リチャード・スマイサーは後に「壁は東ドイツを強化ないし救済するためのもので、チェックポイント・チャーリーでの事件はある意味でゲームだった。クレイは戦車隊が到着してすぐにそれを察知し、様子を見ることにしょう、と言った。実際戦車が対峙していても緊迫した空気は無かったし、双方とも発砲する気は無かった。この事件で第三次世界大戦を始めようとは思っていなかったし、ロシアもそのつもりは無かった。」と語っている:281-283。 ヘンリー・キッシンジャーはその著書「外交」の中で、このベルリン問題について、「フルシチョフが東ドイツとの平和条約を断念し、ベルリンの壁の成功が個別の平和条約を不要にしたと宣言したことで、ベルリン危機は終わった。」と述べた。そして「危機を通じて序盤に鮮やかな動きを見せた後に、相手が進退窮まって投了するのを待つチェスの棋士のように振る舞った。しかし外交記録を読むと、交渉で数多の選択肢が示されて論じられ暗示されているのにそれを少しも利用しなかったことは理解しがたいことだ。」「結局フルシチョフは自分が何度も最終期限を設定しながら何もせず、西側同盟国を交渉に巻き込ませた数々の選択肢についても何もしなかった。3年間の最後通牒と血も凍る脅迫(1958年の自由都市宣言と1961年ウイーン会談におけるケネディへの最後通牒)の後でフルシチョフの成功はベルリンの壁を作ったことだが、これは結局、ソ連のベルリン政策の失敗を象徴するものとなった。」「フルシチョフは自ら作り出した絡み合った罠に自らはまり込んでしまった。」としてベルリン危機は翌年秋に起こったキューバ危機とともに冷戦の転換点となったと述べている:208-210。この壁建設は結局1958年の最後通牒から大きく後退し、西側に対決するものでなく、東ドイツ人の利益に対立するものであった。そしてこの時は西側は知らなかったが、東側陣営での中ソ対立で中国との関係が悪化していたことが一定程度西側への態度を軟化させていた、とも見られている:199。 この1年後の1962年10月に、キューバにソ連が密かに核ミサイル基地を建設しようとしていたことを発見した米国はキューバを海上封鎖してソ連にミサイル基地撤去を迫り、核戦争の一歩手前まで行ったがうまく回避しソ連のミサイル基地撤去を勝ち取った。 詳細は「キューバ危機」を参照
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