シュヴァルツブルク伯爵
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「シュヴァルツブルク家」の記事における「シュヴァルツブルク伯爵」の解説
ジッツォ3世フォン・ケーフェルンブルクは1103年に初めて史料に現れ、1123年にはシュヴァルツブルク伯と呼ばれるようになった。彼がケーフェルンブルク=シュヴァルツブルク家の共通の祖とされる。しかし、1071年に故地スヴァルツィンブルクが史料に初出してから、それを家名とするまでには100年以上を要した。12世紀半ばのシュヴァルツブルク伯領は、アルンシュタット近郊のケーフェルンブルク、テューリンゲンの森のシュヴァルツブルク、ヴィーエ近くのウンシュトルト川下流域とフィンネ山地であった。 ジッツォ3世の長男ハインリヒ1世は、シュヴァルツブルクの領地とイルムの半分を相続した。次男ギュンター2世はケーフェルンブルク城を継ぎ、兄ハインリヒ1世の死後にはシュヴァルツブルクの領地をも手に入れた。シュヴァルツブルク家は、ギュンター2世からシュヴァルツブルクを相続した息子ハインリヒ2世が祖と考えられている。ハインリヒ2世は神聖ローマ帝国に地歩を確保すべくホーエンシュタウフェン家のシュヴァーベン王フィリップを支持していた。ホーエンシュタウフェン家は一度は神聖ローマ皇帝位を失うが、フィリップの甥にあたるフリードリヒ2世が神聖ローマ皇帝に即位すると、ハインリヒ2世は1228年の第6回十字軍に参加してこれを支持した。ハインリヒ2世は、フリードリヒ2世から支持に対する返礼としてザールフェルトとラニスの領地を与えられた。ハインリヒ2世にはハインリヒ3世 (1259年没)、ギュンター7世 (1274年没) およびアルブレヒト2世 (1278年没) の3人の息子がおり、ハインリヒ3世はシュヴァルツブルクとクラニヒフェルトを相続した。ギュンター7世はブランケンブルクを相続し、アルブレヒト2世は領地の代わりに財産を相続した。 一方、ギュンター2世はケーフェルンブルク家の始祖とされる。ギュンター2世は後妻にハラームント伯の娘アーデルハイト・フォン・ロックム=ハラームントを迎えていたが、ハラームント伯領を継承していた義弟ルドルフ1世フォン・ロックム=ハラームントが1191年に亡くなったことからアーデルハイトを通じてハラームント伯領を継承した。ギュンター2世はアーデルハイトとの間の子ルドルフ2世にハラームント伯領を相続させて分家ケーフェルンブルク=ハラームント家を設けたが、1412年にオットー3世フォン・ハラームントが亡くなると断絶し、本家たるケーフェルンブルク家も1385年には断絶している。ケーフェルンブルク家の領地はテューリンゲン方伯領に組み込まれた後、1446年にシュヴァルツブルク家の手に渡ることとなる。ケーフェルンブルク城はシュヴァルツブルク家のものとなったが、三十年戦争の頃には周辺住民が城の石材や煉瓦を家屋などに使うために持ち出したことから荒廃が進み、現在では城壁しか残っていない。一方、ギュンター2世の孫でギュンター3世の息子であるアルベルト1世 (1236年没) は、ケーフェルンブルク家の別の分家であるラーベンスヴァルデ家を興した。アルベルト1世はラーベンスヴァルデ城の他にヴィーエ城とその城下町などを所領とし、ラーベンスヴァルデ伯およびヴィーエ伯を称した。この称号は1249年にハインリヒ・フォン・マイセン辺境伯と他の貴族との間で共同墓地の管理について取り決めた文書で言及されている。しかし、ラーベンスヴァルデ家は短命で、早くも1312年に最後の当主フリードリヒが亡くなって断絶した。 シュヴァルツブルク家において歴史的に重要なシュヴァルツブルク=ブランケンブルク家は、ハインリヒ2世からブランケンブルクを相続したギュンター7世に始まる。しかし、シュヴァルツブルクを相続した兄ハインリヒ3世が1259年に相続人がいないまま亡くなり、ギュンター7世がシュヴァルツブルクを継承したことから、シュヴァルツブルク家とシュヴァルツブルク=ブランケンブルク家はいったん統一される。1274年にギュンター7世がなくなると、シュヴァルツブルクを継承した長男ギュンター9世 (1289年没) がシュヴァルツブルク=シュヴァルツブルク家、ブランケンブルクを継承した次男ハインリヒ5世 (1285年没) がシュヴァルツブルク=ブランケンブルク家を興した。シュヴァルツブルク=シュヴァルツブルク家からは1327年にシュヴァルツブルク=ヴァクセンブルク家、1362年にはシュヴァルツブルク=ロイテンベルク家が分家した。 シュヴァルツブルク=ヴァクセンブルク家はギュンター10世 (18世) に始まり、アルンシュタット近郊のヴェステ・ヴァクセンブルクに在した 。ギュンター10世は、兄弟であるハインリヒ9世とともに1310年にロイヒテンブルクの地権を得、1333年にはロイヒテンブルクを所領とした。当主はヴァクセンブルク以外にクラニヒフェルトなどにも居城を持っていたが、経済的な理由から1369年にヴァクセンブルク城をテューリンゲン方伯に売却せざるを得なくなった。その後、シュヴァルツブルク=ヴァクセンブルク家は1450年に断絶した。一方、シュヴァルツブルク=ロイテンベルク家はハインリヒ11世 (15世) に始まり、彼はロイテンベルク城とその城下町を購入してここに住んだ。しかし1564年に シュヴァルツブルク=ロイテンベルク家は断絶し、領地や家産はシュヴァルツブルク=ルードルシュタット家のものとなった。 シュヴァルツブルク家は14世紀始めにはゲーラ川およびザーレ川の流域にも進出し、テューリンゲン地方北部に領地を広げていた。1338年にシュロットハイム、1340年にはフランケンハウゼンを買い入れて世襲領に加えている。14世紀末には後にシュヴァルツブルク侯国となるゾンダースハウゼンを手に入れている。一方でウンシュトルト川下流域およびザーレ川中流域は早々に失っている。1334年にはルードルシュタットも手に入れた。 この頃、シュヴァルツブルク伯は神聖ローマ帝国にも野心を持っており、ヴィッテルスバッハ家とも極めて良好な関係にあった。ハインリヒ5世の孫であるギュンター21世フォン・シュヴァルツブルク=ブランケンブルクは、1330年から神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世のバイエルンの宮廷で軍指揮官および外交官として仕えていた。相続したのはブランケンブルクの他にザーフェルトの1/4だけであったが、後にテューリンゲン地方北部のアルンシュタット、シュロットハイムおよびフランケンハウゼンを手中に収めて領地を拡大した。1347年10月にルートヴィヒ4世が没すると、ギュンター21世は1349年1月30日にルクセンブルク家のカール4世に対抗する対立王として擁立され、同年2月6日にはフランクフルトで戴冠した。しかしカール4世に自身の支持者を切り崩されるなど劣勢に立たされ、1349年5月26日には金銭的な補償や支持者に対する恩赦と引き換えに王権を放棄することを定めたエルトフィレ条約を結んで退位した。その直後に重病 (当時ヨーロッパで大流行していたペストと推測される) となり、1349年6月14日にフランクフルトのヨハニター修道院で亡くなった。葬儀はカール4世の主催によりフランクフルトの聖バルトロメウス大聖堂で行われ、市内の通りや小学校に彼にちなんでシュヴァルツブルクまたはギュンターの名が付けられた。 シュヴァルツブルク家は同時期にヴェッティン家のテューリンゲン方伯フリードリヒ2世とのテューリンゲン伯戦争(ドイツ語版) (1342-1346年) を戦ってもいた。テューリンゲン伯戦争は主にヴァイマール=オーラミュンデ伯およびシュヴァルツブルク伯とヴェッティン家の抗争であったが、最終的にはヴェッティン家がテューリンゲン地方の覇権を勝ち取った。この結果、テューリンゲン諸邦の版図は大きく変わったが、テューリンゲン地方全体として見ればその領域は1918年のドイツ革命まで本質的に変化することはなかった。その後、シュヴァルツブルク家は1389年にザールフェルトをヴェッティン家に売却せざるを得なくなり、さらにカムスドルフとゴスヴィッツ、ラニスもヴェッティン家に奪われた。シュヴァルツブルク家の勢力拡大は頭打ちとなったが、ロイス家と同様に小勢力ながらも歴史の表舞台には留まり続けた。 シュヴァルツブルク=ブランケンブルク家当主ギュンター40世フォン・シュヴァルツブルク (1499-1552年) の代にシュヴァルツブルク家の領地は概ね統一された。16世紀初頭に始まった宗教改革は社会にも大きな変化をもたらしたからである。ギュンター40世にはアルブレヒト7世、ヨハン・ギュンター1世、 ギュンター41世およびヴィルヘルム1世の4人の息子がおり、それぞれルードルシュタット、ゾンダースハウゼン、アルンシュタットおよびフランケンハウゼンを継承した。このうち後2人は跡継ぎなく亡くなり、その遺領は1599年11月21日のシュタットティマー条約によりそれぞれヨハン・ギュンター1世とアルブレヒト7世に受け継がれた。このとき決まったシュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯領とシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯領の領域は、その後1918年まで300年にわたって保たれた。シュヴァルツブルク伯領はどちらも神聖ローマ帝国においてはオーバーザクセン帝国クライスに属した。
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