シュヴァルツブルク伯爵とは? わかりやすく解説

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シュヴァルツブルク伯爵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 00:58 UTC 版)

シュヴァルツブルク家」の記事における「シュヴァルツブルク伯爵」の解説

ジッツォ3世フォン・ケーフェルンブルクは1103年初め史料現れ1123年にはシュヴァルツブルク伯と呼ばれるようになった。彼がケーフェルンブルク=シュヴァルツブルク家の共通の祖とされる。しかし、1071年故地スヴァルツィンブルクが史料初出してから、それを家名とするまでには100年以上を要した12世紀半ばのシュヴァルツブルク伯領は、アルンシュタット近郊のケーフェルンブルク、テューリンゲンの森のシュヴァルツブルク、ヴィーエ近くウンシュトルト川下流域とフィンネ山地であった。 ジッツォ3世長男ハインリヒ1世は、シュヴァルツブルクの領地イルム半分相続した次男ギュンター2世はケーフェルンブルク城を継ぎ、兄ハインリヒ1世死後にはシュヴァルツブルクの領地をも手に入れたシュヴァルツブルク家は、ギュンター2世からシュヴァルツブルクを相続した息子ハインリヒ2世が祖と考えられている。ハインリヒ2世神聖ローマ帝国地歩確保すべくホーエンシュタウフェン家シュヴァーベンフィリップ支持していた。ホーエンシュタウフェン家一度神聖ローマ皇帝位を失うが、フィリップの甥にあたるフリードリヒ2世神聖ローマ皇帝即位すると、ハインリヒ2世1228年第6回十字軍参加してこれを支持したハインリヒ2世は、フリードリヒ2世から支持対す返礼としてザールフェルトとラニスの領地与えられた。ハインリヒ2世にはハインリヒ3世 (1259年没)、ギュンター7世 (1274年没) およびアルブレヒト2世 (1278年没) の3人の息子がおり、ハインリヒ3世はシュヴァルツブルクとクラニヒフェルトを相続したギュンター7世はブランケンブルクを相続しアルブレヒト2世領地代わりに財産相続した一方ギュンター2世はケーフェルンブルク家の始祖とされるギュンター2世後妻にハラームント伯の娘アーデルハイト・フォン・ロックム=ハラームントを迎えていたが、ハラームント伯領を継承していた義弟ルドルフ1世フォン・ロックム=ハラームントが1191年亡くなったことからアーデルハイト通じてハラームント伯領を継承したギュンター2世アーデルハイトとの間の子ルドルフ2世にハラームント伯領を相続させて分家ケーフェルンブルク=ハラームント家を設けたが、1412年オットー3世フォン・ハラームントが亡くなると断絶し本家たるケーフェルンブルク家も1385年には断絶している。ケーフェルンブルク家の領地テューリンゲン方伯領に組み込まれた後、1446年シュヴァルツブルク家の手に渡ることとなる。ケーフェルンブルク城はシュヴァルツブルク家のものとなったが、三十年戦争の頃には周辺住民が城の石材煉瓦家屋などに使うために持ち出したことから荒廃進み、現在では城壁しか残っていない。一方ギュンター2世の孫でギュンター3世息子であるアルベルト1世 (1236年没) は、ケーフェルンブルク家の別の分家であるラーベンスヴァルデ家を興したアルベルト1世はラーベンスヴァルデ城の他にヴィーエ城とその城下町などを所領とし、ラーベンスヴァルデ伯およびヴィーエ伯を称した。この称号1249年にハインリヒ・フォン・マイセン辺境伯と他の貴族との間で共同墓地管理について取り決めた文書言及されている。しかし、ラーベンスヴァルデ家は短命で、早くも1312年最後当主フリードリヒ亡くなって断絶したシュヴァルツブルク家において歴史的に重要なシュヴァルツブルク=ブランケンブルク家は、ハインリヒ2世からブランケンブルクを相続したギュンター7世に始まる。しかし、シュヴァルツブルクを相続したハインリヒ3世1259年相続人がいないまま亡くなりギュンター7世がシュヴァルツブルクを継承したことから、シュヴァルツブルク家とシュヴァルツブルク=ブランケンブルク家はいったん統一される1274年ギュンター7世がなくなると、シュヴァルツブルクを継承した長男ギュンター9世 (1289年没) がシュヴァルツブルク=シュヴァルツブルク家、ブランケンブルクを継承した次男ハインリヒ5世 (1285年没) がシュヴァルツブルク=ブランケンブルク家を興した。シュヴァルツブルク=シュヴァルツブルク家からは1327年にシュヴァルツブルク=ヴァクセンブルク家、1362年にはシュヴァルツブルク=ロイテンベルク家が分家した。 シュヴァルツブルク=ヴァクセンブルク家はギュンター10世 (18世) に始まりアルンシュタット近郊のヴェステ・ヴァクセンブルクに在した 。ギュンター10世は、兄弟であるハインリヒ9世とともに1310年にロイヒテンブルクの地権を得、1333年にはロイヒテンブルクを所領とした。当主はヴァクセンブルク以外にクラニヒフェルトなどにも居城持っていたが、経済的な理由から1369年にヴァクセンブルク城をテューリンゲン方伯売却せざるを得なくなったその後、シュヴァルツブルク=ヴァクセンブルク家は1450年断絶した一方、シュヴァルツブルク=ロイテンベルク家はハインリヒ11世 (15世) に始まり、彼はロイテンベルク城とその城下町購入してここに住んだ。しかし1564年に シュヴァルツブルク=ロイテンベルク家は断絶し領地家産シュヴァルツブルク=ルードルシュタット家のものとなったシュヴァルツブルク家14世紀始めにはゲーラ川およびザーレ川流域にも進出しテューリンゲン地方北部領地広げていた。1338年にシュロットハイム、1340年にはフランケンハウゼンを買い入れ世襲領に加えている。14世紀末には後にシュヴァルツブルク侯国となるゾンダースハウゼンを手に入れている。一方でウンシュトルト川下流域およびザーレ川中流域早々に失っている。1334年にはルードルシュタットも手に入れたこの頃、シュヴァルツブルク伯は神聖ローマ帝国にも野心持っており、ヴィッテルスバッハ家とも極めて良好な関係にあったハインリヒ5世の孫であるギュンター21世フォン・シュヴァルツブルク=ブランケンブルクは、1330年から神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世バイエルン宮廷で軍指揮官および外交官として仕えていた。相続したのはブランケンブルクの他にザーフェルトの1/4だけであったが、後にテューリンゲン地方北部アルンシュタット、シュロットハイムおよびフランケンハウゼンを手中に収めて領地拡大した1347年10月ルートヴィヒ4世没すると、ギュンター21世は1349年1月30日ルクセンブルク家カール4世対抗する対立王として擁立され、同年2月6日にはフランクフルト戴冠した。しかしカール4世自身支持者を切り崩されるなど劣勢に立たされ、1349年5月26日には金銭的な補償支持者対す恩赦引き換え王権放棄することを定めたエルトフィレ条約結んで退位した。その直後重病 (当時ヨーロッパで大流行していたペスト推測される) となり、1349年6月14日フランクフルトのヨハニター修道院亡くなった葬儀カール4世主催によりフランクフルト聖バルトロメウス大聖堂行われ市内通り小学校彼にちなんでシュヴァルツブルクまたはギュンターの名が付けられた。 シュヴァルツブルク家同時期にヴェッティン家テューリンゲン方伯フリードリヒ2世とのテューリンゲン戦争ドイツ語版) (1342-1346年) を戦ってもいた。テューリンゲン戦争は主にヴァイマール=オーラミュンデ伯およびシュヴァルツブルク伯とヴェッティン家抗争であったが、最終的にヴェッティン家テューリンゲン地方覇権勝ち取った。この結果テューリンゲン諸邦版図大きく変わったが、テューリンゲン地方全体として見ればその領域1918年ドイツ革命まで本質的に変化することはなかった。その後シュヴァルツブルク家1389年ザールフェルトヴェッティン家売却せざるを得なくなり、さらにカムスドルフとゴスヴィッツ、ラニスもヴェッティン家奪われた。シュヴァルツブルク家勢力拡大頭打ちとなったが、ロイス家同様に小勢力ながらも歴史表舞台には留まり続けた。 シュヴァルツブルク=ブランケンブルク家当主ギュンター40世フォン・シュヴァルツブルク (1499-1552年) の代にシュヴァルツブルク家領地概ね統一された。16世紀初頭始まった宗教改革社会にも大きな変化もたらしたからである。ギュンター40世にアルブレヒト7世、ヨハン・ギュンター1世ギュンター41世およびヴィルヘルム1世の4人の息子がおり、それぞれルードルシュタット、ゾンダースハウゼン、アルンシュタットおよびフランケンハウゼンを継承したこのうち2人跡継ぎなく亡くなり、その遺領1599年11月21日のシュタットティマー条約によりそれぞれヨハン・ギュンター1世アルブレヒト7世受け継がれた。このとき決まったシュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯領とシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯領の領域は、その後1918年まで300年わたって保たれた。シュヴァルツブルク伯領はどちらも神聖ローマ帝国においてはオーバーザクセン帝国クライス属した

※この「シュヴァルツブルク伯爵」の解説は、「シュヴァルツブルク家」の解説の一部です。
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