シュヴァルツブルク侯国
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「シュヴァルツブルク家」の記事における「シュヴァルツブルク侯国」の解説
詳細は「シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国」および「シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国」を参照 シュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯とシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯は神聖ローマ帝国内において単なる地方領主に過ぎなかったが、1697年に神聖ローマ皇帝レオポルト1世は両伯を1697年に侯に昇叙すると宣言した。シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン伯クリスティアン・ヴィルヘルムはこれを拝受したが、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット伯アルベルト・アントンはさまざまな理由を挙げてこれを固辞した。しかし1710年に皇帝ヨーゼフ1世から改めて下命があったことから受け入れるに至った。これに合わせて分割相続による所領の細分化や再編を防ぐために長子相続制が導入され、シュヴァルツブルク=ルードルシュタットでは1710年に家法に定められた上で1716年に皇帝の裁可を得た。シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼンでも1716年に家法に定め、1719年に皇帝裁可を得た。両侯は1754年から諸侯部会(ドイツ語版)に参加した。 1909年にシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯カール・ギュンターが自殺すると、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯ギュンター・ヴィクトルはシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国摂政となり、同君連合の形で両国を統治した。1910年にはシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国の人口は約10万人、シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国の人口は約9万人であった。その後、1918年のドイツ革命によりドイツ帝国内の君主制が次々と倒されていく中、ギュンター・ヴィクトルも1918年11月23日にシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯、11月25日にシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯を退位した。 この結果、シュヴァルツブルク=ルードルシュタット自由州とシュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン自由州が成立し、さらに1920年には他のテューリンゲン諸邦と合邦してテューリンゲン州となった。1925年にギュンター・ヴィクトルが亡くなると、ジッツォ・フォン・シュヴァルツブルクがシュヴァルツブルク家家長となったが、翌1926年にはジッツォも亡くなり、その息子フリードリヒ・ギュンターが家長となった。フリードリヒ・ギュンターは1971年に子女なく亡くなり、ここにシュヴァルツブルク家の男系は断絶した。なお、フリードリヒ・ギュンターの妹マリー・アントワネットの子女は、ゾルムス=ヴィルデンフェルス伯爵を名乗っている。 1900年頃のシュヴァルツブルク=ルードルシュタット侯国の主要な産業は林業や農業であった。シュヴァルツァの谷やリヒト、ロークヴィッツにはスレート採石場があった他、フランケンハウゼンには塩田があった。工業としては御用窯・御用工房での磁器およびガラス製品の生産が行われていた。シュヴァルツブルク=ゾンダースハウゼン侯国では、農業と林業の他、鉱業や冶金などさまざまな産業があった。
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