オーストリア学派との関係
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「社会的市場経済」の記事における「オーストリア学派との関係」の解説
ゲルハルト・シュターペルフェルト(ドイツ語版)によると、ミュラー=アルマックは、オイケン、ハイエク、つまりオーストリア限界効用理論学派、オルド自由主義などの様々な新自由主義に影響を受けており、またインゴ・ピースによるとアルマックはルートヴィヒ・フォン・ミーゼスとフリードリヒ・ハイエクからも影響を受けていた。クリスチャン・ヴァトリン(ドイツ語版)によると、「アルフレート・ミュラー=アルマックは、アレクサンダー・リュストーの『自由経済--強い国家』(1933年)を再考しながら自分の考えを展開した。同時に、フライブルク学派(ヴァルター・オイケン、アドルフ・ランペ、コンスタンティン・フォン・ディーツェ)の研究、レプケの「現在の社会的危機」(1943年)、ミーゼスの介入主義批判(1929年)、しかしハイエクの『隷属への道』(1945年)についても考察している。まさに社会的市場経済の出発点についての考察には、ハイエクの理念との共通点が過小評価されている。エアハルトは、ある誕生日での賛辞で、「ヴァルター・オイケン、フランツ・ベーム、ヴィルヘルム・レプケ、アレクサンダー・リュストー、F・A・フォン・ハイエク、アルフレート・ミュラー=アルマック、そして同じように考えて議論した人びと、こういう人たちがいなければ」、自分は社会的市場経済の土台を作ることに殆ど貢献できなかっただろうと述べている。エアハルトの伝記を書いたクリストフ・ホイスゲン(ドイツ語版)は、エアハルトの理念と行為を導いた精神的源泉は、代表的な新自由主義であるハイエクとレプケとオイケンの3人であったと評価している。 古典的な自由主義者であるミーゼスやハイエクの理論は、(歴史的な意味で)オイケンやリュストー、レプケの新自由主義とは相容れないものであると、カトリン・マイヤー=ルストは結論づけている。リュストーがレプケに当てた手紙を参照のなかで、古典的自由主義者に対して「極めてた多くの人が非難するだろう。彼らには迷走していて、古臭く、使いふるしであるという評判が当然ながらつきまとっていて、私たちはこの点ではそれとは違った考え方を持っているのに、私たちもその評判で汚されてしまっている。ひどく時代遅れだが、彼らにしっぽを振って言いなりになるやつはいないだろう。当然のことだ」。ハイエクと「彼の師匠であるミーゼスは、現在の悲劇を引き起こして消えつつある自由主義ジャンルのうちで、最後に生き残った標本としてアルコール漬けにされて博物館に置かれて当然である」。ジビュレ・テンニースもその不一致を見ている。ゲーロ・ターレマンによれば、ミュラー=アルマックは、市場経済はそれ自体で社会的公正を保証することができないと考えていたので、ハイエクの考え方とは相容れないものである。ハイエクは、貧富の差をなくす政治は法治国家を壊すという見解を持っている。ウィルガ・フェステによれば、ハイエクは所得配分の結果に対して平等であるべきとする考え(例えば平等な所得配分の要求)を断固として拒絶したが、これに対して社会的市場経済の先駆者たちは、格差問題に対して明確に社会的公正を持ちだし、それを交換の公正(ドイツ語版)と結びつけた。ヨアヒム・シュターバティ(ドイツ語版)によれば、ハイエクと社会的市場経済の秩序政策的な違いは、すさまじい対立がありそうに思えるが、それほど深刻なものではない。その違いは、まず所得の再分配が必要かどうかという点から始まっている。例えば、オイケンが述べるところでは、「収入の格差が引きおこすのは次の点である。すなわち、収入の低い家庭が切迫した貧苦のためにもっと満足を要求しているというのに、贅沢品の生産が行われる。このとき競争秩序のなかで生じる分配には修正が必要になるのである」。それに対してハイエクにとって重要だったのは、競争が進んだ結果の不平等を是正することではなくて、集合責任である。政治的に必要だという判断の規模は、繁栄する社会では正当にも物理的な最低限の生活を保証するかどうかを超えている。ミーゼスとハイエクをめぐってオーストリア学派の考えと異なっているのは、諸個人の競争とは、発見のやり方(Entdeckungsverfahren)であり、それを国家の条件設定よりも信頼しているという点である。その際に秩序のスケールとして国家は重要な役割をもつ。 ハイエクは、ルートヴィヒ・エアハルトが「ドイツでの自由な社会を再建」したという点での業績には明白な共感を示していたが、しかしオイケンやミュラー=アルマックのような社会的市場経済の先駆者や、レプケとリュストーとの論争では全く共感を見せなかった。マルティン・ノーンホフ、アラン・O・エーベンシュタイン、ラルフ・プタック、ラインハルト・ツィントル、西山千明、クルト・R・ロイベなどは、ハイエクが社会的市場経済を口にするのを遺憾に思っていたという発言を引用している。ハイエクの友人は社会的市場経済という言葉を使うことで、自由主義的な社会秩序をもっと魅力的に見せることに成功したにも関わらずである。ノーンホフによれば、ハイエクが主張した秩序とは、できるだけ国家の管理や方針がなくて成立する内発的な経済秩序であった。それに対して、オスヴァルト・フォン・ネル=ブロイニング(ドイツ語版)は、「『社会的市場経済』を支持することで、経済を管理することが可能であるし必要だという主張が生じてきた」と強調していた。そこから「社会的市場経済の先駆者たちのグループは」、思想史的な脈絡においても、たんに不和の軋轢の種だっただけでなく、その本当の意味を探せなくなるようなひどい矛盾があった。オットー・シュレヒト(ドイツ語版)によれば、ハイエクは、国家があらゆる経済システムと社会システムに重要な役割を果たすことを否定していたわけではなかった。もちろん、ハイエクが否定していたのは、もし社会的市場経済というのがありえるのなら、それは市場経済ではないということだ。ラルフ・プタック(ドイツ語版)によれば、ハイエクが「社会的市場経済」という名称に対して批判したからといって、それはオルド自由主義を否定していると考えるべきではなく、むしろハイエクが問題にしていたのは、社会的市場経済という言葉を用いることが福祉国家の肥大化に繋がりかねないということであった。ヨセフ・ドレクセル(ドイツ語版)によると、ハイエクは福祉国家と社会的市場経済も、相反する目的のごたまぜ状態にあると考えていた。社会的市場経済という社会福祉国家(ドイツ語版)は、ハイエクの内発的秩序(ドイツ語版)という考え方とは根本的に違っている。経済行為の結果を社会的なものとして評価することはできず、それゆえ社会福祉国家的政策によって前もって決めてはならない。ルートヴィヒ・エアハルトにとって、「人道的な責任を作りあげ、個人の成果を弱める社会福祉国家ほど非社会的なものはない」。ハラルド・ユングの見解によれば、しかしいずれにせよハイエクのいう意味での規範的な目標としての社会的公正を拒否するために、(ミュラー=アルマックによる)社会的市場経済という考え方が要求されることはありえない。 ヨアヒム・シュターバティ(ドイツ語版)の個人的な記憶によると、ケルンでゼミナールがあった際に、ミュラー=アルマックとハイエクは、「腕を組み合って」社会的市場経済という全ての政党が背負っている「社会福祉政策的な重荷」を批判していた。このことからシュターバティは、「一方でミュラー=アルマック、ルートヴィヒ・エアハルト、ヴァルター・オイケン、アレクサンダー・リュストー、フランツ・ベーム、他方でフリードリヒ・フォン・ハイエク」、両者には秩序政策に関して違いがあるようにみえるが、「しかしこの政策論争で我々が思うほどには深刻なものではなかった」。 フリードリヒ・キースリンクとベルンハルト・リーガーは、モンペルラン・ソサイエティーでも明らかになったように、二つの派閥のあいだにますます溝が深まったと指摘した。ハイエクやミーゼス、フリードマンなどのラディカル化しているアメリカ派閥は、「形容詞のない(adjektivlos)」、国家介入(ドイツ語版)をしない市場経済を支持したのに対して、とくにリュストー、レプケ、ミュラー=アルマックに代表されるドイツ派閥は社会的市場経済を支持し、包括的な社会福祉政策、活力政治、社会福祉政策という面での国家の積極的な介入を肯定した。彼らは、アメリカ派が新自由主義の本来の目的を裏切っており、道徳的に「停滞した、むきだしの経済主義(ドイツ語版)」であると避難した。
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