イラン革命からアフマディーネジャード政権まで(1979~2013年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:01 UTC 版)
「日本とイランの関係」の記事における「イラン革命からアフマディーネジャード政権まで(1979~2013年)」の解説
しかし1979年2月、イランで革命が起こってパフラヴィー朝が崩壊して、それまで親米国であったイランは反米姿勢を露わにした。同年11月には首都テヘランのアメリカ大使館に暴徒が乱入してアメリカ人を人質に取った。これは宣戦布告同然の行為であり、本来であればイラン当局は暴徒を取り締まるべき立場にあったが、当時のイラン暫定政権は反米急進派のイスラーム革命評議会と二重政府状態にあり、人質解放へむけて積極的に動けなかった。さらに事件がもとで暫定政権が総辞職すると、革命評議会は公式に政治権力を握り、立てこもった暴徒を陰に陽に擁護するようになった。 1980年4月、業を煮やしたアメリカはイランに国交断絶を通告し、経済制裁を発動した。この事件を解決できなかったアメリカのジミー・カーター大統領は威信を大いに傷つけられ、大統領選での再選も叶わず、ロナルド・レーガンへの政権交代を許す一因となった。このアメリカ大使館人質事件はレーガン大統領が就任してすぐに解決したが、この事件はイランとアメリカの関係を決定的に悪化させた。 上記のアメリカ大使館人質事件に加えて、重要な親米国群である湾岸諸国をイランによる王制転覆から守る意味合いからも、1980年代は、イラン・イラク戦争(レーガン政権の時期とほぼ重なる)でアメリカがイランの敵イラクを支援するという構図が出来上がった。アメリカの外交政策の影響で、日本もイランとの関係を縮小させるように圧力がかけられ、一方で日本とイラクの関係が深まる結果となった。以降、日本は「アメリカの顔色を窺いながら、可能な範囲でイランとの関係を維持、強化する」という図式が定着している。 1992年4月、観光目的で入国したにも関わらず不法滞在する在日イラン人の増加を理由に、革命前に締結されて継承もされていたビザ免除の観光協定が停止された。2004年から日本はイラン最大のアーザーデガーン油田の開発事業を行っている。 2010年2月23日、イランのアリー・ラーリージャーニー国会議長が衆議院の招待で来日した。議長は、同月24日に岡田克也外務大臣と会談し、同月27日には長崎市を初めて訪れ、長崎原爆資料館を見学した。議長は記者団に「世界に一つでも原爆が存在すれば人類への脅威だ。人々は、核のない世界に向けて立ち上がるべきだ」と感想を述べた。見学後、田上富久長崎市長らと共に資料館近くの爆心地公園にある原爆落下中心地碑に献花した。 2011年12月9日、日本は「国際連合安全保障理事会決議第1929号の履行に付随する措置の対象の追加について」に基づき、イランの原子力開発に関わる銀行3行(累次の決議及び昨年の付随措置との合計20行)、銀行以外の者106団体・1個人(累次の決議及び昨年の付随措置との合計267団体・66個人)に対する支払等及び指定された者との間の資本取引等を許可制とし、銀行とのコルレス関係を停止した。また、金融活動作業部会(FATF)の声明を受け、金融機関等に対し、顧客の本人確認義務、疑わしい取引の届出義務及び外国為替取引に係る通知義務の履行を徹底するよう要請した。
※この「イラン革命からアフマディーネジャード政権まで(1979~2013年)」の解説は、「日本とイランの関係」の解説の一部です。
「イラン革命からアフマディーネジャード政権まで(1979~2013年)」を含む「日本とイランの関係」の記事については、「日本とイランの関係」の概要を参照ください。
- イラン革命からアフマディーネジャード政権までのページへのリンク