イギリス空軍の多国籍パイロット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 03:50 UTC 版)
「バトル・オブ・ブリテン」の記事における「イギリス空軍の多国籍パイロット」の解説
国籍パイロットの数ポーランド 145–147 ニュージーランド 101–115 カナダ 94–112 チェコスロヴァキア 87–89 ベルギー 28–29 オーストラリア 21–32 南アフリカ 22–25 フランス 13–14 アイルランド 10 アメリカ 7–9 南ローデシア 2–3 ジャマイカ 1 パレスチナ 1 バルバドス 1 バトル・オブ・ブリテン勝利の大きな要因として、外国人パイロットたちの多大な貢献があった。イギリス空軍は減少していくイギリス人パイロット人員を補うものとして、イギリス連邦諸国やイギリスの植民地さらには外国人パイロットを当初から受け入れていた。イギリス空軍名誉戦死者名簿には510人の外国人パイロットが1940年7月10日~10月31日にイギリス空軍あるいはイギリス海軍航空隊の正規部隊でそれぞれ少なくとも1回の正規出撃をしたと認定されている。 ポーランド人 1940年6月11日、ポーランド亡命政府(pl)はイギリス政府と協定を締結、イギリスで自由ポーランド陸軍とポーランド空軍を編成、1940年8月に2個(最終的には10個)のポーランド人戦闘機中隊が参加、バトル・オブ・ブリテンには4個中隊(第300爆撃機中隊、第301爆撃機中隊、第302戦闘機中隊、第303戦闘機中隊)が投入され、89人のパイロットが参戦。さらに50人以上がイギリス空軍飛行中隊で戦い、全部で145人以上が参戦した。ポーランド人は最も老練なパイロットたちで、すでにポーランドの戦争とフランスの戦争で実戦経験を積んでいたほか、戦前には高度な訓練を受けていた。ポーランドの英雄タデウシュ・コシチュシコ将軍に因んで名づけられた第303コシチュシコ戦闘機中隊は、8月30日(公式には8月31日)になってから参戦したにも拘らず126機を撃墜、バトル・オブ・ブリテン期間の全戦闘機中隊のなかで最高の記録を挙げた。イギリス側の全パイロットの5%にすぎないポーランド人が、バトル・オブ・ブリテン期間中の全撃墜記録の12%を叩き出した。 チェコスロヴァキア人 多くのチェコスロヴァキア人パイロットも投入された。第310戦闘機中隊と第312戦闘機中隊である。他の連合国軍部隊に配属された者を合わせて、87人以上のチェコスロヴァキア人がイギリスの空を守った。そのうちの一人、ヨセフ・フランティシェクはチェコスロヴァキア人と共に行動することを嫌ってポーランド人の第303コシチュシコ戦闘機中隊に加わり、不慮の事故で殉職するまでに敵機17機を撃墜して、バトル・オブ・ブリテンにおける最高のエース・パイロットとなった。 アイルランド人 バトル・オブ・ブリテンに参加したイギリス空軍パイロットのうちで特筆すべきは、1942年7月に戦死するまでに32機の撃墜記録を挙げたアイルランド人エース・パイロットのブレンダン・フィニュケイン(Paddy Finucane)である。彼は1940年8月12日にBf109を仕留めて初の撃墜記録を挙げ、翌日にもう1機の Bf109 を撃墜した。1941年にはオーストラリア人部隊の第452戦闘機中隊 (452 Squadron) に加わり、51日間で16機の Bf109 を撃墜した。パディと呼ばれた彼は1942年6月27日に21歳でホーンチャーチを基地とする戦闘機部隊の指揮官となった。これはイギリス空軍で最も若い飛行隊指揮官であった(Wing Commander)。早くに戦死したにも拘らず、イギリス空軍エース・パイロットのうちでは2番目となる撃墜記録を挙げた。 カナダ人 80人のカナダ人が参加、26人がダンケルクの戦いの直後にイギリスに到着したカナダ空軍第一戦闘機中隊に所属しており、そのうち16人がイギリス空軍第242「カナダ人」戦闘機中隊に所属して出撃、残りは他のカナダ人たちとイギリス空軍の各飛行隊に配属された。幾人かのカナダ人は他の部隊に分散配置され、そのうちの1人はポーランド人の第303コシチュシコ戦闘機中隊に所属し、1人は南アフリカ人の第74戦闘機中隊に所属した。他に200人のカナダ人航空兵がイギリス空軍爆撃機軍団(en)やイギリス空軍沿岸軍団(en)で戦った。 オーストラリア人 イギリス連邦の構成国のオーストラリアはいつもイギリスを支える立場にあり、1939年にドイツとの戦争が始まるとロバート・メンジーズ首相はすぐに軍を派遣しイギリスの戦いを支援した。しかし1941年12月に日本とイギリス、オーストラリア間が開戦した後に、瞬く間に日本軍がマレー半島や香港をはじめとするアジアにおけるイギリスの植民地を制圧したのみならず、インド洋の制海権を握ったためにイギリスとオーストラリア間の交通が滞り、さらに1942年2月から1943年11月にかけて日本軍がオーストラリア本土を空襲したことから本土防衛に専念せざるを得なくなり、オーストラリア人の多くはバトル・オブ・ブリテンに参加できなかった。 パレスチナ人 イギリス空軍名誉戦死者名簿には1人のパレスチナ人がバトル・オブ・ブリテンに参加したと記録されている。ジョージ・アーネスト・グッドマン少尉(42598)はパレスチナ(現イスラエル)のハイファ出身だった。彼の貢献は「イスラエル人の貢献」とも紹介されることがある。グッドマン少尉の両親はユダヤ系イギリス人で、彼本人はイギリスの国籍を持ち、ハイゲート・スクール(Highgate School)で教育を受けた。なお彼はパレスチナ人でもイスラエル人でもなく、イギリス人航空兵と看做されることもある。 アメリカ人 イギリス空軍はバトル・オブ・ブリテンにおいて7人のアメリカ人の参加を認定している。イーグル飛行中隊(Eagle squadron)として知られるアメリカの義勇兵で編成された3個戦闘機中隊(第71イーグル戦闘機中隊、第121イーグル戦闘機中隊、第133イーグル戦闘機中隊)もイギリス空軍と共に戦ったが、最初の部隊が参戦したのはバトル・オブ・ブリテン後の1941年2月になってからで、それも昼間攻撃が終わった後の出撃だった。アメリカ参戦後、これら戦闘機中隊は1942年9月にアメリカ第8航空軍第4戦闘航空群に移管された。
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