イギリス租界封鎖
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1939年6月14日、大日本帝国陸軍の北支那方面軍は、イギリス当局が日本への協力者を暗殺した4人の中国人の引渡しを拒否し、イギリス租界に匿っていることを理由として、外国租界を包囲して封鎖した。租界への出入りを求める者は誰であれ日本兵により公に身体検査され、食糧と燃料の租界への持ち込みは許されなかった。租界を遮断するため、日本軍はその周囲に電気柵を建設した。日本政府は、告発された殺人犯の問題は封鎖の要点ではなく、4人を引き渡しても封鎖は終わらないと宣言した。北支那方面軍は、「矢は既に放たれた。もはや容疑者の引き渡しで終わるものではない。この問題を通じ、帝国陸軍はイギリスの援蒋政策を再検討することを呼びかけている。イギリス租界官憲が『日本とともに東亜新秩序建設に協力する』との新政策を高くかかげるまでわれわれは武器を捨てることはないであろう」と声明を出した。日本は、イギリス政府に対し、イギリスの銀行内にある中国政府に属する全ての銀準備の引き渡し、大英帝国の全域の全ての反日ラジオ放送の禁止、日本政府を攻撃的であると見なす学校教科書の禁止、法幣の発行終了を要求した。日本の真の狙いは、暗殺犯の引き渡しではなく、イギリスによる中国への財政支援の終了であった。 1939年6月16日、英国外務省は記者会見で、日本の要求の受入れは「陛下の政府が過去に追求した政策を、力による脅しを受けて放棄することを意味します。その政策は極東に関心を持つ他の大国のそれと同じです。」と述べた。1939年6月20日、ハリファックス卿は貴族院に、日本は拷問によって得られた自白以外の独立した証拠を提示できなかったと述べ、イギリスはそのような証拠が現れるまでは、4人の告発された暗殺の容疑者を引き渡さないと述べた。 しばらくの間、特に租界に出入りしようとするイギリス人が身体検査において日本から侮辱的な扱いをうけたとイギリスで報道されて炎上したときは、日英戦争が発生しかねない状況にみえた。イギリスの世論は、日本兵により銃剣を突き付けられて公の場で服を脱ぐことを余儀なくされたイギリス女性の報告に特に腹を立て、ステレオタイプ的な「黄禍論」の洪水がイギリスのメディアで広く惹起された。イギリスの海軍元帥 ロジャー・キース 卿はこの状況は宣戦布告に等しいと考えた。その当時の天津は華北におけるイギリス貿易の主要な中心地であり、約1500人のイギリス人が居住しており、その半数は兵士であった。 イギリス首相 ネヴィル・チェンバレンは、この危機は非常に重要と考えたため、王立海軍に、対独戦争よりも対日戦争の可能性により注意を払うよう命じた。日本では1939年夏に、メディア、陸軍、そして様々な右翼団体が激しい反英宣伝活動を行った。日本の正当性を訴える宣伝に賛成の木戸幸一内務大臣は、彼らの反英メディア攻撃を抑えるための手段を何も講じなかった。この対立において日本を勇気づけたことは、日本はアメリカの外交暗号を解読していたため、重慶と東京のアメリカ大使館からの傍受した報告を読んでおり、イギリスがアメリカの支援を求めたが拒否されたことを知ったことだ。アメリカの駐中華民国公使ネルソン・ジョンソンからのメッセージは、日本に何らかの制裁を課せば戦争を引き起こすと思われる、というものであり、その理由によりアメリカが制裁に反対するという彼の助言をみて、日本政府がそのスタンスを維持する方向に傾かせただけでなく、それはまた、アメリカの弱さの印象を与え、アメリカは日本との戦争を恐れており、それを避けるためならば、ほとんどどんな代償でも払うだろうという印象を与えてしまった。 そのころ、日本とソ連の国境戦争は急速に拡大し、日本軍は1939年7月から9月の間に70%の死傷者を出す大きな犠牲を払った末に赤軍は手強い敵であることを認識した。1904~05年の日露戦争以来、日本の将軍はロシアを軽視してきたが、簡単な勝利を期待していた日本は、戦いの激しさに驚かされた。
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