アラゴンとの決別・共産党離党
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「ポール・エリュアール」の記事における「アラゴンとの決別・共産党離党」の解説
一方、この頃から共産党が組織する活動にも参加した。1931年にパリ12区、ヴァンセンヌの森近くのポルト・ドレ宮(フランス語版)で植民地博覧会(フランス語版)が開催された。共産党はこれに抗議し、エリュアール、ブルトン、アラゴン、ユニック、ペレらのシュルレアリストは「植民地博物館へ行ってはいけない」と題するビラを配布した。また、1930年にハルキウで開催された国際革命作家同盟 (UIER) の大会を機に、1932年3月にUIERのフランス支部「革命作家芸術家協会 (AEAR)」が設立され、エリュアール、アラゴン、ブルトン、デスノス、ペレ、ルネ・シャール、エルンストらのシュルレアリストのほか、ロバート・キャパ、バルビュス、アンドレ・ジッド、ロマン・ロラン、ウジェーヌ・ダビ(フランス語版)、ジャン・ゲーノ、ジャン・ジオノ、アンドレ・マルロー、ポール・ニザンらが参加した。同年8月には、バルビュスとロマン・ロランが呼びかけ、アムステルダムで開催された反帝国主義戦争国際会議に出席した。この会議に参加した知識人は、さらにパリのサル・プレイエルを拠点とする反ファシズム労働者運動に合流し、1933年に反戦・反ファシズムのアムステルダム=プレイエル運動(フランス語版)を結成した。このとき、エリュアール、ブルトン、シャール、ロジェ・カイヨワ、イヴ・タンギー、アンドレ・ティリオン(フランス語版)らシュルレアリストは「反戦は平和ではない」と題するパンフレットを配布し、ナチズムの脅威を前にしてもなお戦争を拒否する平和主義者を批判すると同時に、闘争・革命による平和の獲得を訴えた。 一方、ハルキウ会議を機に社会主義リアリズムに転じたアラゴンに対して、シュルレアリストらは『とんだ道化だ(アラゴン事件の終焉)』を発表して彼と決別した。これは、アラゴンがソ連滞在中に書いた長詩「赤色戦線(フランス語版)」が掲載された国際革命作家同盟の機関誌『世界革命文学』のフランス語版がパリで押収され、翌1932年1月16日に「無政府主義の宣伝のために」、「軍隊に不服従を促し、殺人を教唆した」として告発された事件であり、シュルレアリストらはさっそく「裁判を目的とした詩作品解釈の試みに抗議し、訴訟の中止を要求する」という声明を発表し、アラゴン告発に抗議する署名運動を開始。たちまち、フランスだけでなく、ベルギー、ドイツ、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなどの知識人から300人以上の署名が集まった。だが、シュルレアリストらにとってアラゴンを支持することと彼の詩に対する評価は別問題であり、ブルトンは『詩の貧困』を発表して「赤色戦線」は「新しい道を切り拓くものではなく」、「状況の詩」であり、「詩における後退」であると断言。これに対して、革命作家芸術家協会はアラゴンを支持し、アラゴンは『リュマニテ』紙に『詩の貧困』の内容を否認するとする囲み記事を掲載した。『とんだ道化だ』はこの件に決着をつけるために書かれたものであり、エリュアールのほか、シャール、クルヴェル、ダリ、エルンスト、ペレ、タンギー、ティリオン、ツァラらが寄稿している(ブルトンは参加していない)。なかでもエリュアールはさらに「証明書」と題する文書を発表し、「彼(アラゴン)が生の弁証法と呼ぶもののためにどれほどくだらない矛盾を犯してきたかが、今ようやくわかった」、「アラゴンは別人になった。もはや彼のことを思い出すこともない」と、最も辛辣な批判を投げかけている。 だが、共産党の対独レジスタンス・グループ国民戦線(フランス語版)幹事長を務めた共産党員のピエール・ヴィヨン(フランス語版)は後に『わが友、わが同志』に次のように書いている。 ある日、わたしたち(ヴィヨンとポール・エリュアール)はむかしのこと、シュルレアリスム宣言の頃のことを話していた。ポールはシュルレアリスト・グループの分裂や、彼がアラゴンと意見を異にしたことを思い出し、失われた歳月にたいする悔恨の色をうかべて言った。──「あのとき正しかったのはルイ(・アラゴン)だ」(大島博光訳) 二人は10年後に再会して、共に文筆活動による対独抵抗運動を展開することになる。 1933年7月、エリュアールは共産党を離党。さらに、ブルトンが革命作家芸術家協会を除名されたのを受けて、エリュアールも脱会した。エリュアールは、アクション・フランセーズなどの右派・極右勢力がナチスによるドイツ制覇に連動して民衆を扇動して起こした1934年2月6日の危機に抗議する左派の呼びかけに参加した。これは人民戦線の結成につながる運動であり、1930年代には左派知識人による反ファシズム団体が複数結成されたが、これらは主に共産党が主導する団体であり、離党後のエリュアールはこれらの活動に関わっていない。実際、1935年6月にパリで開催され第1回文化擁護国際作家会議(フランス語版)では、アラゴンがソ連代表イリヤ・エレンブルグの協力を得て事務局を務め、ソ連からはエレンブルグのほかイサーク・バーベリ、ドイツからはハインリヒ・マン、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、オーストリアからローベルト・ムージル、英国からオルダス・ハクスリーらが参加したが、エレンブルグと対立したブルトンが同会議から追放され、このことが間接的な原因となって結核を患っていたクルヴェルが自殺するなど多くの問題が重なった。さらに、ブルトンの代わりに彼の演説原稿を読み上げたエリュアールは、「仏ソ相互援助条約(フランス語版)の締結および仏ソ文化協力に反対した」と誤解された。この結果、コミンテルンおよびスターリンのソ連を支持する共産主義者らとシュルレアリストらの決別は決定的なものとなった。
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