アラゴンとの決別・共産党離党とは? わかりやすく解説

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アラゴンとの決別・共産党離党

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 07:21 UTC 版)

ポール・エリュアール」の記事における「アラゴンとの決別・共産党離党」の解説

一方この頃から共産党組織する活動にも参加した1931年パリ12区ヴァンセンヌの森近くのポルト・ドレ宮(フランス語版)で植民地博覧会フランス語版)が開催された。共産党はこれに抗議しエリュアールブルトンアラゴンユニックペレらのシュルレアリストは「植民地博物館行ってはいけない」と題するビラ配布したまた、1930年ハルキウ開催され国際革命作家同盟 (UIER) の大会機に1932年3月にUIERのフランス支部革命作家芸術家協会 (AEAR)」が設立されエリュアールアラゴンブルトン、デスノス、ペレルネ・シャールエルンストらのシュルレアリストのほか、ロバート・キャパバルビュスアンドレ・ジッドロマン・ロラン、ウジェーヌ・ダビ(フランス語版)、ジャン・ゲーノジャン・ジオノアンドレ・マルローポール・ニザンらが参加した同年8月には、バルビュスロマン・ロラン呼びかけアムステルダムで開催され反帝国主義戦争国際会議出席した。この会議参加した知識人は、さらにパリサル・プレイエル拠点とする反ファシズム労働者運動合流し1933年反戦反ファシズムアムステルダムプレイエル運動フランス語版)を結成した。このとき、エリュアールブルトンシャールロジェ・カイヨワイヴ・タンギー、アンドレ・ティリオン(フランス語版)らシュルレアリストは「反戦は平和ではない」と題するパンフレット配布しナチズム脅威前にしてもなお戦争拒否する平和主義者批判する同時に闘争革命による平和の獲得訴えた一方ハルキウ会議機に社会主義リアリズム転じたアラゴンに対してシュルレアリストらは『とんだ道化だ(アラゴン事件終焉)』を発表して彼と決別した。これは、アラゴンソ連滞在中に書いた長詩赤色戦線フランス語版)」が掲載され国際革命作家同盟機関誌世界革命文学』のフランス語版パリ押収され、翌1932年1月16日に「無政府主義宣伝のために」、「軍隊不服従を促し殺人教唆した」として告発され事件であり、シュルレアリストらはさっそく「裁判目的とした詩作品解釈試みに抗議し訴訟中止要求する」という声明発表しアラゴン告発抗議する署名運動開始。たちまち、フランスだけでなく、ベルギードイツチェコスロバキアユーゴスラビアなどの知識人から300人以上の署名集まった。だが、シュルレアリストらにとってアラゴン支持することと彼の詩に対す評価別問題であり、ブルトンは『詩の貧困』を発表して赤色戦線」は「新しい道切り拓くものではなく」、「状況の詩」であり、「詩における後退」であると断言。これに対して革命作家芸術家協会アラゴン支持しアラゴン『リュマニテ』紙に『詩の貧困』の内容否認するとする囲み記事掲載した。『とんだ道化だ』はこの件に決着をつけるために書かれたものであり、エリュアールのほか、シャール、クルヴェル、ダリエルンストペレタンギーティリオンツァラらが寄稿している(ブルトン参加していない)。なかでもエリュアールはさらに「証明書」と題する文書発表し、「彼(アラゴン)が生の弁証法と呼ぶもののためにどれほどくだらない矛盾犯してきたかが、今ようやくわかった」、「アラゴン別人になった。もはや彼のことを思い出すこともない」と、最も辛辣な批判投げかけている。 だが、共産党の対独レジスタンス・グループ国民戦線フランス語版幹事長務めた共産党員のピエール・ヴィヨン(フランス語版)は後に『わが友、わが同志』に次のように書いている。 ある日わたしたちヴィヨンポール・エリュアール)はむかしのことシュルレアリスム宣言の頃のことを話していた。ポールはシュルレアリスト・グループの分裂や、彼がアラゴン意見異にしたことを思い出し失われた歳月にたいする悔恨の色をうかべて言った。──「あのとき正しかったのはルイ(・アラゴン)だ」(大島博光訳) 二人10年後に再会して、共に文筆活動による対独抵抗運動展開することになる。 1933年7月エリュアール共産党離党。さらに、ブルトン革命作家芸術家協会除名されたのを受けてエリュアール脱会した。エリュアールは、アクション・フランセーズなどの右派極右勢力ナチスによるドイツ制覇連動して民衆扇動して起こした1934年2月6日の危機抗議する左派呼びかけ参加した。これは人民戦線結成につながる運動であり、1930年代には左派知識人による反ファシズム団体複数結成されたが、これらは主に共産党主導する団体であり、離党後のエリュアールはこれらの活動に関わっていない実際1935年6月パリ開催され第1回文化擁護国際作家会議フランス語版)では、アラゴンソ連代表イリヤ・エレンブルグ協力得て事務局務めソ連からはエレンブルグのほかイサーク・バーベリドイツからはハインリヒ・マンベルトルト・ブレヒトアンナ・ゼーガースオーストリアからローベルト・ムージル英国からオルダス・ハクスリーらが参加したが、エレンブルグ対立したブルトンが同会議から追放され、このことが間接的な原因となって結核患っていたクルヴェルが自殺するなど多く問題重なった。さらに、ブルトン代わりに彼の演説原稿読み上げたエリュアールは、「仏ソ相互援助条約フランス語版)の締結および仏ソ文化協力反対した」と誤解された。この結果コミンテルンおよびスターリンソ連支持する共産主義者らとシュルレアリストらの決別決定的なものとなった

※この「アラゴンとの決別・共産党離党」の解説は、「ポール・エリュアール」の解説の一部です。
「アラゴンとの決別・共産党離党」を含む「ポール・エリュアール」の記事については、「ポール・エリュアール」の概要を参照ください。

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