アラゴン事件 -〈赤色戦線〉
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「ルイ・アラゴン」の記事における「アラゴン事件 -〈赤色戦線〉」の解説
1930年4月、マヤコフスキーが自殺。アラゴンとエルザは姉リーリャ・ブリークに会うためにソ連を訪れた。ジョルジュ・サドゥールが合流し、アラゴンとサドゥールはハルキウ(ハリコフ)で開催された国際革命作家同盟 (UIER) の大会にシュルレアリストを代表して参加した。この経験が大きな転機となった。シュルレアリスムの共産党からの独立性を主張するブルトンに対して、アラゴンは共産党と共同戦線を張る必要があると考えるようになり、サドゥールとともに作成したハリコフ会議の報告書には、共産党との合意に基づいて国際革命作家同盟のフランス支部「革命作家芸術家協会 (AEAR)」を設立することなどが盛り込まれていた。ハリコフ報告はシュルレアリストにとって到底受け入れられるものではなく、この後3か月にわたって激論が交わされた。 さらに、アラゴンがソ連滞在中に書いた長詩「赤色戦線(フランス語版)」は、彼の社会主義的情熱を語るものであり、これにより、アラゴンとブルトン、ひいてはシュルレアリスムとの決別は決定的なものとなった。労働者に革命を呼びかけ、「赤い列車は動き出し、だれも止められはしない、SSSR、SSSR、五カ年計画を四年で成し遂げよう、SSSR、人間による人間の搾取をやめさせよう、SSSR、SSSR、SSSR」(SSSR:ソビエト連邦)、「ポリ公どもをぶっ殺せ」、「レオン・ブルムに火を放て」といった詩句を含むこの詩は、1931年10月に刊行された詩集『迫害する被迫害者』の巻頭詩として掲載され、国際革命作家同盟の機関誌『世界革命文学』のフランス語版にも掲載された。ところが、このフランス語版が11月にパリで押収され、翌32年1月16日、アラゴンは、「無政府主義の宣伝のために」、「軍隊に不服従を促し、殺人を教唆した」として告発された。これは、5年の禁錮刑が言い渡される可能性のある犯罪であり、シュルレアリストらを巻き込んだ「アラゴン事件」に発展した。 シュルレアリストらはさっそく「裁判を目的とした詩作品解釈の試みに抗議し、訴訟の中止を要求する」という声明を発表し、アラゴン告発に抗議する署名運動を開始した。たちまち、フランスだけでなく、ベルギー、ドイツ、チェコスロバキア、ユーゴスラビアなどの知識人から300人以上の署名が集まった。一方、ブルトンにとってこの運動は、詩作品「赤色戦線」の評価とは別であり、彼は同年3月に発表した小冊子『詩の貧困 ― 世論に裁かれる「アラゴン事件」』 において、この詩は「新しい道を切り拓くものではなく」、「状況の詩」であり、「詩における後退」であると断言した。これに対して、1932年3月に設立された革命作家芸術家協会はアラゴンを支持し、アラゴンは『リュマニテ』紙に『詩の貧困』の内容を否認するとする囲み記事を掲載した。こうして、ハリコフ会議を機に共産主義への一歩を踏み出し、ブルトンの「シュルレアリスム第二宣言」を否認したアラゴンの「赤色戦線」、そして「アラゴン事件」は、シュルレアリスムという文学芸術革命に留まるか、これを社会革命に発展させるかという問題をシュルレアリストらに突きつけることになり、アラゴン自身は後に『社会主義レアリスムのために』に「ソビエトから帰ってきたわたしはもはや同じ人間ではなかった。もはや『パリの農夫』の作者ではなく、『赤色戦線』の作者だった」と書くことになる。
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