アジアへの冒険旅行
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「カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム」の記事における「アジアへの冒険旅行」の解説
1906年3月、サンクトペテルブルクのロシア軍参謀本部に呼び出されたマンネルヘイムはフランスのポール・ペリオが行う、中央アジアからトルキスタン、チベットを経由して北京までを横断する考古学調査隊へ参加することになった。ペリオの目的は研究だが、マンネルヘイムの役目は清の地域事情と軍事情勢を調査する諜報活動であった。華北はロシア、清、そして時にイギリスの間の勢力争いがあり、潜在的な危機を持った一帯だったためである。しかしマンネルヘイム自身も、異国の文化をフィンランドに紹介できることに魅力を感じ、参加を決めた。出発前には、後に現地で実際に会う事になるオーレル・スタインの清への遠征報告書などを読んでいる。 サンクトペテルブルクを列車で出立し、タシュケントで情報収集した上でウズベキスタンのアンディジャンで馬と人夫を手配し、オシでペリオの調査隊と合流した。ペリオ側はロシアの物資・資金の援助を期待しており、それが叶わないことを知るとマンネルヘイムを調査隊の一員ではなく同行者として扱った。 一行は8月11日に出発し、8月24日にカシュガルに到着した。1か月間滞在した後ペリオの調査隊と別れ、10月にカシュガルを出て南東方向のヤルカンド、ホータンを巡り12月末にカシュガルへ戻った。1月27日に再出発し、今度は北東へ向かい天山山脈の地形を調査しながらグルジャを経由して7月24日に新疆省の中心地であるウルムチへ到着した。8月にウルムチから東へ進み、トルファン、バルクル、ハミ、敦煌を訪れた。1908年1月29日に蘭州へ入り、4月28日に西安、5月30日に開封と清の西部の要所となる都市を調べながら東へ進んだ。開封から列車で山西省へ向かい、五台山の寺院でイギリスによって国を追われたダライ・ラマ13世と謁見した。ダライ・ラマはロシアの援助を望んでおり、ロシア皇帝への贈物として白色の絹地を受け取った。マンネルヘイムは自身のピストルを献上品として捧げた。 その後は馬車と鉄道で北へ向かい内モンゴルの首都フフホトではモンゴル人の牧草地に植民し、開拓する中国人を見た。1908年7月25日にマンネルヘイムは北京へ辿り着いた。総行程は14,000キロメートルにおよび、そのうち10,000キロメートルは馬で移動した。この間自分の他には数人の地元民を雇っていただけで、ほとんど単独行に近い状態であったという。この旅を通じて、マンネルヘイムは1,200点の蒐集品、1,370枚の写真、2,000点の古文書やその一部を集めた。この中には学術的に価値の高いものも含まれており、1911年に72ページの論文を発表した。同時代のスウェーデンの地理学者・探検家であるスヴェン・ヘディンはマンネルヘイムの調査を評価した。 北京に6週間滞在した後、天津から長崎に向かい、日本で8日間を過ごして舞鶴からウラジオストクを経由して10月8日にサンクトペテルブルクへ戻った。諜報活動の成果は報告書としてまとめられ、清の遅い近代化、教育、軍の改革、異民族地方の漢人の殖民地化、工業、産業、鉄道建設、日本の影響、アヘンの喫煙などが詳細に記録されていた。そのほかに非公開で、新疆省への兵力展開の可能性などについて報告した。 この旅を終えた1909年、マンネルヘイムはミンスク・マゾヴィエツキ(英語版)の第13ウラジミール・ウーラン連隊の指揮官となる。翌年に少将へ格上げされワルシャワで皇帝を護衛する近衛長槍騎兵連隊の指揮官を任されることとなった。1912年にニコライ2世から側近の将校のみに与えられるア・ラ・スーツの称号をうけ、1914年には近衛騎兵旅団の司令官となり、元々指揮していた騎兵連隊の他に騎兵連隊1つと騎砲兵中隊1つを指揮することになった。
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