アジアへ、そして死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 09:34 UTC 版)
ローマに戻って凱旋式を挙行したゲルマニクスは、今度は中東に派遣される。これはエルベ川進出に見切りを付けてライン川まで退くという非難されかねない撤退を、目立たないうちに成し遂げるというティベリウスの巧妙な策であった。勝利に湧く当時こそが、その絶好の時であった。 そして小アジアのカッパドキア、コマゲナをローマの属州に編入した。しかし直後の19年にアンティオキアにおいて急な高熱により死亡した。 ゲルマニクスは非常に謎めいた死に方をしており、この30歳を超えたばかりの早すぎる死が、皇帝ティベリウスやシリア総督ピソによる毒殺の噂を呼んだ。事実ティベリウスの命でシリア総督となったピソはゲルマニクスが死ぬ直前に口論を行っており、また妻の大アグリッピナの激しい追求もあり、ピソは裁判の被告となったのち、家名を守って自死することとなる。現在ではその死因はマラリアであったとされている。
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