アジアの通商とは? わかりやすく解説

アジアの通商

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 07:36 UTC 版)

近世における世界の一体化」の記事における「アジアの通商」の解説

詳細は「ポルトガル海上帝国」を参照 一方アジアにおいては16世紀活発な通商おこなわれ東アジアからインド洋にかけてさかんに人びと交流していた。特に琉球王国は、中国日本朝鮮東南アジアを結ぶ中継貿易繁栄の時代をむかえ、日本の堺や博多自治都市として栄えたそうしたなか、ヨーロッパからはるばるインド洋達したポルトガル人は、東南アジア東アジア通商参入し戦国時代の日本琉球にも渡来したポルトガル人インドゴアマレー半島マラッカ中国マカオ広州日本平戸などの港に商館をおいて通商し、またイエズス会などカトリック修道会中国日本布教はじめた。少し遅れてスペイン人オランダ人通商加わった。しかし、この時期ヨーロッパ人は、アジアにおける政治秩序文化侵すことはできなかった。すでにアジア人相互通商がさかんで、それぞれの国では統治制度きわめて高度に整備されていたからだった。 豊かなアジア国々は、鉄砲をはじめ、西洋文化強い関心をもった日本をのぞくと、ヨーロッパ産品を特に必要としなかった。なお、鉄砲は、1543年種子島漂着したポルトガル人伝えたとされる。しかし、軍事史家宇田川武久は、それが倭寇用いたアジア製の模造品である可能性が高いことを指摘している。 明やオスマン帝国などのアジア大国軍隊では大砲中心に火器もかなり普及していたが、火薬原料として必要な硝石日本異なり家畜の飼育が盛んだったため、十分自給できていた。逆にヨーロッパ人びと香辛料陶磁器絹織物などアジア物産をおおいに求めた結果的に、これら産品購入するための対価としては、メキシコペルーボリビアなどで産出された銀が充当された。アメリカ大陸日本の石銀山生野銀山からの銀が大量にアジア流れることによって、16世紀後半アジア経済はさらに活況を呈することとなった。 そして、明王朝では1565年に銀を用いた納税方法である一条鞭法採用され1570年代以降には全国波及して税制簡素化されていった

※この「アジアの通商」の解説は、「近世における世界の一体化」の解説の一部です。
「アジアの通商」を含む「近世における世界の一体化」の記事については、「近世における世界の一体化」の概要を参照ください。

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