遣唐使
「遣唐使」とは、奈良時代から平安時代にかけて日本が唐(当時の中国の王朝)に派遣した公式の使節および使節団のことである。おおむね7世紀から9世紀にかけて、20回ほど計画され、うち十数回が実施に至っている。
遣唐使は、当時の大陸の最先端の文化を日本にもたらす成果を残し、また「日本」という国号や「天皇」という尊称が初めて用いられたこともあり、日本史上たいへん重要な出来事のひとつと位置づけられる。
「遣唐使」の概要
「遣唐使」は、飛鳥時代に推古朝が当時の「隋」に送った「遣隋使」を踏襲したものといえる。隋が滅び唐が成立したため「遣隋使」は「遣唐使」と呼び名を改められた。「遣唐使」の第1回派遣は630年、「犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)」という人物が正使として渡航し、2年後に無事帰国したとされる。当時の日中間を結ぶ航路は複数あったが、急な天候悪化などが理由で遭難し数百人単位が死亡する、渡航を断念して引き返すといったことは珍しくなかったという。
航海を無事に乗り切って唐の港に入った後も、陸路を徒歩で移動する必要があった。旅程は半年から1年に及んだ。唐に渡った後日本に戻れなくなることもあった。まさに命がけ、人生を懸けた旅である。
遣唐使の目的や使命は多岐に渡るが、総じて「大陸の先進的な優れた文化・制度・学問・思想を日本に伝えること」だったといえる。唐王朝と対等な外交関係を築こうと目論んでいた節もあったらしいが、これは実現しなかった。
遣唐使には大陸の高度な学問を修めんとする留学生や、仏教の探求を志す留学僧なども、多く参加した。唐に渡り日本へ戻ることのできた者は、唐の文化や技術、仏教経典の写しや琵琶などの楽器、薬、茶、果物(柑子)の種子など、数多のすばらしい成果を持ち帰り日本にもたらした。
遣唐使として渡海した留学僧の中には、真言宗の開祖・空海、および、天台宗の開祖・最澄もいた。
遣唐使は成功すれば多大な成果をもたらすとはいえ莫大な出費を伴う事業でもあった。西暦894年、菅原道真の進言により、遣唐使を送る事業は停止された。その後まもなく(907年)唐が滅亡し、「遣唐使」も廃止に至った。
遣唐使が廃止となり、国を挙げての事業としての使節派遣はいったん途絶えたが、その後も大陸との交流や貿易は細々とかつ盛んに行われていたと考えられている。
唐が滅び、五代十国が乱立した後、宋王朝が成立して中国大陸の状勢が安定すると、「日宋貿易」が盛んに行われるようになった。
「遣唐使」に関連する用語の解説
遣唐使船とは
「遣唐使船」とは、「遣唐使」が唐を目指すために乗る船の名前である。「遣唐使」が派遣され始めた頃は二隻、後々増えて四隻の「遣唐使船」が運行されるようになった。四隻の船は「よつのふね」とも呼ばれた。船一隻あたり100人が乗り込むことができ、全長約30メートル・幅約8メートルという規模である。帆船ではあるが動力としては主に櫓をこいで進んでいたと考えられている。船の構造の問題から大変転覆しやすく、全ての「遣唐使船」が往復できたのは長い歴史の中でもわずか一回のみとされる。「遣唐使」を含む用語の解説
遣唐使ふるさと館(道の駅)
「遣唐使ふるさと館」とは、長崎県五島市の福江島にある道の駅の通称・愛称である。館内にはふるさと物産館や展示コーナーなどの他に、レストランやシアターなどの設備も整っている。「遣唐使ふるさと館(道の駅)」がある福江島は、遣唐使が南路を通って唐を目指す際、日本で最後の最寄港だったため、「遣唐使船寄泊地の碑」なども建てられている。けん‐とうし【剣闘士】
けんとう‐し〔ケンタウ‐〕【遣唐使】
健闘し、検討し、献灯し
遣唐使 (けんとうし)
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