『ポン』製造開始後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:55 UTC 版)
「アタリ (企業)」の記事における「『ポン』製造開始後」の解説
当初は時間と金を作っておく→電気屋等で資材を沢山買い込む→基板など電子部品を作る→空の筐体を置いて部品をあちこち付ける→売る→売り切ったら売れた金でまた資材を買うと言う、全くの自転車操業だった。これでは毎日数台、どんなに頑張っても10台しか作れなかった。だが『ポン』は400ドルで作り、1,200ドル即現金払いが飛ぶように売れた。この頃アメリカで最も人気のあったピンボールは、一日約100ドルを稼いでいたが、『ポン』は100ドルから200ドル以上稼いだ為、つまり3日で製造コスト、1週間で販売コストが回収できた。当時のアーケード業界は日米共にまだ認知度も企業信頼度も低く、銀行から融資してもらえるゲーム会社は大手だけだったが、アタリはこのような右肩上がりで、軍資金をどんどん貯めていった。 アタリは隣の部屋も借りる→潰れたローラースケート場を借りて工場に改造→当時アメリカで最新設備の工場と、9ヶ月間に3回も移転、生産ラインの従業員は職安で片っ端から声をかけ、最終的には200人で毎日100台の生産能力を確保した。それでも人手不足だったため、アタリに入って来た者なら誰でも節操なくスカウトした程だった。後にスプライト機能等を生み出す技術者スティーブ・ブリストーは、ハンダ付けや現金回収時のボディガードを、妻に手伝ってもらっていた。 従業員は低賃金で一日12時間、忙しい時は20時間働き、疲れた時は作っているゲームで遊んだが、何故か家に帰らない者が多かった。彼らの多数はヒッピーだったため、工場は常にマリファナの臭いとロックの大音響で満たされた上、金に困ったヒッピーが、テレビや部品を勝手に質屋に売り払うこともあった。だがゲームが売れる度に全員にボーナスが頻繁に出るなど、羽振りは大変良かった。資本金500ドルで始まったアタリは翌年、いとも簡単に320万ドル以上の売り上げを記録し、この頃の売り上げと資本金の急成長ぶりは、アメリカの企業として未だ破られていない記録である。『ポン』以外のゲームでは、1973年に『ポンダブルス』、ボールとラケットタイプ以外のゲームでは、『スペースレース』を発売している。 ただ、前述のダブニーはこの急成長に付いて行けないと言い出したので、退職条件としてこれまでの直営ロケ(会社が直接機械を設置する事)の権利をダブニーが、株券をブッシュネルが全て持つ事にした。こうして創立後約1年で、アタリは名実共にブッシュネルの会社となった。 1973年には、効率良い販売のため、子会社のキーゲームズ(Kee Games)を立ち上げたが、約1年半で早々と吸収合併、キーゲームズ社長のキーナンをアタリの社長に据え、ブッシュネルは会長になった。以後、キーナンはアルコーンと共に、ブッシュネルの腹心の片腕として活躍することになる。この他に日本支社としてアタリジャパン(初代)を作ったが、これについては左記リンクを参照。 1974年初頭には、40人目の社員として、スティーブ・ジョブズが技術者として入社している。同じく1974年には、初の家庭用ゲーム機として、『ポン』の家庭用版『ホーム・ポン』、1976年には『ポン』に続く大ヒット作として『ブレイクアウト』を発表した。ジョブズはこのゲームに必要な汎用ロジックICの数を半減させるという仕事を知人でヒューレット・パッカードの技術者だったスティーブ・ウォズニアックに依頼したが、この時ジョブズは山分けと称して報酬額を過少に渡していた。 1975年、コンピュータ・キットのAltair 8800が発売され人気を博す。ウォズニアックはAltair 8800よりも優れたマシンを自作できると考え、マイクロコンピュータ「Apple I」を独力で設計した。ジョブズがこれでビジネスを始めることを思いつきヒューレット・パッカードとアタリに商品化を打診したが断られたため、1976年4月1日、ジョブズとウォズニアックにアタリの製図工であったロナルド・ウェイン(英語版)を加え、Apple Computer Companyを設立した。またビジネスを拡大する際にもアタリ時代の上司のつてを頼りマイク・マークラを紹介してもらっている。
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