アタリ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 03:47 UTC 版)
「スティーブ・ジョブズ」の記事における「アタリ時代」の解説
導師を求めてインドまで旅をしたいと考えたジョブズは、旅費を捻出するため働くことを決める。1974年2月にジョブズは実家に戻り、その日のうちにアタリを訪問、「雇ってくれるまで帰らない」と宣言してアタリのトップであるノーラン・ブッシュネルを引っ張り出した。ブッシュネルに気に入られたジョブズは40人目の社員として採用され、時給5ドルのテクニシャン(下級エンジニア)として働くこととなった。入社後のジョブズは長髪で風呂に入らず、ビルケンシュトックサンダル(または裸足)でうろつく不潔な姿に加え、誰彼かまわず尊大な態度で接したため、夜勤でひとり勤務していたにもかかわらず、技術部長のアラン・アルコーン(英語版)などの同僚の大半から「無礼者」と認識された。 ジョブズはアルコーンにインドまでの旅費の援助を頼み、ミュンヘンでのゲームの修理を旅費込みで命じられ、ドイツ経由でインドへ渡ることで旅費を安く済ませるめどを立てた。ジョブズは仕事を済ませたあと一度退社し、友人のダン・コトケとともにインドにたどり着いたが、すぐに赤痢にかかって苦しむことになったうえ、放浪の末に想像とあまりにもかけ離れたインドの実態に失望した。結局その年の秋にはロスアルトスに帰り、曹洞宗の禅僧である鈴木俊隆と知野弘文を導師としてサンフランシスコで禅を学び、瞑想やスタンフォード大学の授業聴講などをして自分探しを行ったあと、1975年初頭にアタリに復職する。 復職後の夏、ブッシュネルから直々に新製品「ブレイクアウト」(ブロックくずし#ブレイクアウト)の回路の部品減らしを命じられた。「減らした数だけ報酬が出る」と言われたが、ジョブズは自身ではできないことをすぐ認識した。ジョブズは、部外者のウォズニアックを毎晩こっそり社内に招き入れ(ブッシュネルはこれを予測していた)、ゲームをしたり勝手に基板を改造していたウォズニアックに対してその片手間に作業を頼んだ。ウォズニアックは、4日間徹夜して部品を20〜30個も減らしたが、あまりに窮屈で難解な設計はウォズニアック自身にしか理解できなかったため、ジョブズは会社からやり直しを命じられ、その場で取りつくろおうとしたが当然できず、結局またしてもウォズニアックに泣きつくことになった。そしてウォズニアックは、多少部品は増えたものの、誰もがわかる程度に設計の変更を行った。 ジョブズは報酬の山分けをウォズニアックに提案し、アタリから受け取った700ドルのうち350ドルを小切手でウォズニアックに渡したが、実際には5,000ドルを受け取っており、差額をオレゴン州の共同農場につぎ込んでいた。1984年ごろ、ウォズニアックがアルコーンに偶然出会った際、ジョブズによる報酬搾取の事実を知り、ジョブズとウォズニアックとの間にしばらく確執が生じた。ともあれウォズニアックは、後述のApple IやIIを設計する際に「ブレイクアウト」の部品減らしが、大変役に立ったと語っている。なおアルコーンはアタリを退職後、Apple Computerにも勤めていた時期がある。
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