「科学の公衆理解」運動
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「サイエンスコミュニケーション」の記事における「「科学の公衆理解」運動」の解説
科学の公衆理解(英語版)(public understanding of science)、科学に対する公衆の意識(public awareness of science)、科学技術への公衆関与(public engagement with science and technology)、これらはすべて20世紀後半に国や科学者が起こした運動の中で作り出された用語である。19世紀末に科学は職業的な活動となり、国の影響を受けるようになった。それ以前には科学の公衆理解が論題として大きく取り上げられることはなかった。ただし、一部の著名人は専門家ではない公衆を対象とした講義を行っていた。その一人であるファラデーが行っていたのは、英国王立研究所(Royal Institution)が1825年から現在まで実施している名高いクリスマス・レクチャーである。 20世紀に至って、科学をより広い文化的コンテクストの中に置き、科学者が一般大衆に理解されるような形で知識を発信することを目指す団体が出現した。英国においては、1985年に王立協会が作成したボドマー報告書(正式な題名は The Public Understanding of Science 「科学の公衆理解」)が、科学者と社会との関係を再定義するきっかけとなった。この報告書は「連合王国における科学の公衆理解の性質と程度を見直し、それが先進民主主義の観点から十分であるか検討する」意図で作成された。作成委員会は遺伝学者ウォルター・ボドマーが議長を務め、ナレーターでもあるデイビッド・アッテンボローなど著名な科学者が参加していた。報告書では様々なセクターに対して科学の理解増進のための施策が提言されたが、特に科学技術の専門家に対し公衆とのコミュニケーションを促したことは画期的であった。ここで公衆は(互いに重なり合う)5つのグループに分類された。すなわち (1) 私的個人、(2) 民主社会の市民、(3) 科学の専門家、(4) 中堅管理職と労組専従者、(5) 政治家や実業家である。その前提として読み取れるのは、すべての人が科学をある程度理解している必要があり、そのためには若年のうちから科学に関して適格な教師に教えを受けなければいけないということである。報告書の中ではテレビや新聞などのメディアが今以上に科学を取り扱うよう提言されていたが、それがもとになって、科学コミュニケーションのプラットフォームを提供するen:Vega Science Trustのような非営利団体が設立された。 第2次世界大戦が終わると、英国と米国のどちらにおいても、科学者に対する一般の見方は称賛から不信へと大きく振れた。このためボドマー報告書では、社会への関与を避けることで研究費の調達が阻害されているのではないかという科学コミュニティの懸念が強調されていた。ボドマーは英国の科学者に対し、彼らには研究内容を公知のものとする責任があると訴え、より広範な一般大衆に科学を伝えることを奨励した。ボドマー報告書の発刊を受けて、英国科学振興協会、王立協会、王立研究所は協同して「科学の公衆理解のための委員会」(COPUS)を設置した。これらの団体が協調に踏み切ったことで、科学の公衆理解運動に真剣に取り組む趨勢が生まれた。COPUSは公衆理解を増進するアウトリーチ活動を特に対象とする補助金の交付も行った。ついには、科学者が研究成果を広く非専門家コミュニティに向けて公表するのが当たり前だという文化的変革がもたらされた。英国のCOPUSは既に廃止されたが、その名はアメリカで「科学の公衆理解のための連合」(Coalition on the Public Understanding of Science)として受け継がれた。この団体は米国科学アカデミー、アメリカ国立科学財団から資金を拠出されており、サイエンスカフェやフェスティバル、雑誌発行、市民科学のような各形式のポピュラー・サイエンス分野のプロジェクトに重点を置いている。
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