「科学的経営」と金融
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先にも触れたが、東邦電力では1922年2月から1927年6月まで、社内に「調査部」(発足当初は「臨時調査部」)という部署を置き、技術方面と業務方面を中心として電気事業に関する研究を実施していた。この調査部の活動以外にも、同時期には役員・社員による海外視察や海外実習にも積極的であった。東邦電力では、こうした調査研究活動の成果に基づく経営、すなわち「科学的経営」を経営方針として掲げた。この「科学的経営」がとりわけ効果を発揮したのは金融面であった。 電気事業は代表的な資本集約型産業であり、多額の資金を固定する必要があるため、その資金問題は電気事業にとって最重要課題である、というのが会社を主宰する松永安左エ門の一貫した持論であり、その方針は会社にも反映された。松永は、社債や借入金の利子に株式配当も加えた広義の「金利」が電力原価のうち6割から8割を占めており、この「金利」の高低が電力原価を左右するものであるから、「金利」の低い資金を多く調達することが重要である、と主張していた。従って東邦電力では、積極的な電源開発に必要な資金をいかに低コストで調達するかという点を重視し経営を推進した。 東邦電力がこの資金コストの低減策として採用したのが社債による資金調達であり、社債発行額は1922年から1927年の間で計10口・1億1058万円(外債含む)に及ぶ。社債の発行利率は6.2から8.5パーセントであり、同時期の配当率に比して著しく低率である。その上、これよりも1パーセント以上も低利な外貨建社債、すなわち外債の発行にも踏み切った。外債発行は松永が九州電灯鉄道常務時代の1919年(大正8年)に行った欧米視察で着想したもので、1923年より準備を始め、1925年(大正14年)4月15日付で発行が実現した。この第1回外債は7分利付き米貨債で発行額は1500万米ドル(日本円換算3009万円)。第2回外債は同年6月23日に発行され、これは5分利付き英貨債で発行額は30万英ポンド(日本円換算293万円)であった。この2つの外債は償還期間が30年および20年の長期債であるが、1926年7月発行の第3回外債6分利付き米貨債(発行額1000万米ドル・日本円換算2006万円)は利率が有利であるとして償還期間3年間の短期債となった。 外債発行を柱とする社債中心の資金調達に並行して、資金コスト低減策として同時期には配当の抑制も試みた。その一つが固定資産償却の優先で、償却費の複利積立てを行う全額出資による貯蓄会社の設立(1922年10月「東邦貯蓄株式会社」の名で設立)を独自に考案した。またアメリカの電力会社が行っていた、需要家から株式出資を募るという制度の導入も目指した。しかしながら配当抑制の試みは時期尚早で、前者は東邦貯蓄に積み立てられた償却費は年間で固定資産額の1パーセントという最低水準に留まり、後者は需要家からの社債募集という形で導入されたものの成果はなかった。当時、社債の発行限度額は商法により払込資本金額以内と定められており(第200条)、コスト面で有利な社債をより多く発行するには払込金徴収を実施しなければならず、これには高水準の配当を維持する必要があるというのが配当抑制に失敗した理由であった。
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