「決死隊」編成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 00:42 UTC 版)
5月から三島は、幹部級の7、8名に居合を習わせ始め、板橋警察署の道場や皇宮警察の済寧館で稽古が行われ、班長クラスの精鋭会員9名(持丸博、森田必勝、倉持清、福田俊作、福田敏夫、勝又武校、原昭弘、小川正洋、小賀正義)それぞれに日本刀を渡し、斬り込み可能の「決死隊」を作っていた。 5月11日、港区愛宕の青松寺(三島の祖父・平岡定太郎の菩提寺)境内の精進料理・醍醐において、三島と山本1佐とそれに連なる自衛隊幹部が会食した。三島は新左翼の解放区闘争や国防問題の情勢を分析し、「私の行動は非合法の決闘だ」と決意を示した。この会合の時、三島はボーガンの訓練をする適切な場所はないか訊ね、幹部の1人が八王子市のサマーランドを提案した。 5月13日、東大教養学部教室で開催された全共闘との討論会に三島が招かれ、新左翼学生らと激論を交わした。この際、警視庁から警護の申し出を三島は断り、楯の会の同行者もいらないと腹巻に短刀と鉄扇を忍ばせ単身で赴いたが、持丸、森田ら10人は、三島には内緒で会場に潜伏し、前から2列目に並んだ。 5月23日、千代田区神田小川町の浪曼劇場で山本1佐指導の楯の会全会員の特別訓練が開始され、この日は講義が行われた。24日と25日は新宿地区での対抗訓練で、街頭連絡、尾行、貼り込みと、変電所、ガスタンク、浄水場など10か所ほどの大がかりな候察訓練が行われ、26日は報告会となった。 この頃の班長は、第1班が庄司晃通、第2班が持丸博、第3班が原昭弘、第4班が小野寺彰、第5班が阿部勉、第6班が伊藤好雄であった。なお、5月18日に市ヶ谷会館で行われた5月例会には、三島の恩師の清水文雄が参加した。 6月9日、楯の会は新宿で独自のPR作戦を行なった。熱い陽ざしの下、冬の制服の会員たちは2、3人ずつに分かれて、森田必勝が指揮を取って紀伊國屋書店前から歌舞伎町方面に散開して、通行人に楯の会のパンフレットを配ったり、意識調査のアンケートを取ったりした。 この時、山本1佐が部下に命じて密かに会員の行動を探っていたが、森田たちが汗をたらしながら街頭でPR活動を繰り広げる中、持丸博の一派は歩道に腰を下したまま、冷ややかな目で眺めているだけだったという。この頃から次第に楯の会の内部で、長期的民防運動を目指す一派と、治安出動を予期して積極的直接行動を目指す一派との対立が生じ始めていた。 パレードの準備訓練という地味な定例行事や、元自衛官OB会員のリーダーシップに対する不満、警備保障会社との連携構想に基づく高速道路のアルバイト勤務に対する疑問など、楯の会の行動が具体化するにつれ、不平不満の形で内部の対立意識が表面化してきた。持丸は時々、山本1佐など自衛隊将校に対する三島の度の過ぎた信頼感を諌めることもあった。 6月22日、日本武道館で行われた第12回全国空手道選手権大会に、三島と楯の会会員が参列して観戦した。毎週1回の空手の稽古は希望者だけ参加していた。 6月下旬、三島と山本1佐と5名の自衛官が山の上ホテルのレストランの個室で会食した。三島は、楯の会の皇居死守の具体的な実行動の計画について話し、「すでに決死隊を作っている」と山本1佐に決断を迫ったが、山本1佐は、「まず白兵戦の訓練をして、その日に備えるべきだ。それも自ら突入するのではなく、暴徒乱入を阻止するために」と制して賛同しなかった。 三島は義憤を押え、総理官邸での演習計画も提案するが、自衛隊に批判的なマスコミの目を恐れた山本1佐はそれを拒否した。7月、山本1佐が陸上自衛隊調査学校副校長に昇格し、次第に楯の会の指導協力に費やす時間がなくなっていった。
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