「沈んだ箱」?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 22:51 UTC 版)
「ウィーン国立歌劇場」の記事における「「沈んだ箱」?」の解説
フランツ・ヨーゼフ1世の治世に行われた、城壁の撤去とリング通りの建設を中心としたウィーン都市大改造計画の一環として、ウィーン市庁舎、ブルク劇場とともに建設された「ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場」が前身である。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}これら3つの建造物建設計画は1859年に募集された85のプロジェクトから選ばれたものである。[要出典]ウィーン帝立・王立宮廷歌劇場建設計画はウィーン大改造に伴い取り壊しが決まったケルントナー門歌劇場の代替としてウィーン美術アカデミーの建築家エドゥアルト・ファン・デア・ニルとアウグスト・シカート・フォン・ジッカルツブルクの共作で考案したものが選定された。劇場はウィーンの中心部、ケルントナー通りとリング通りの交点に面して建てられており、「オペル・リンク(オペラ通り:Oper Ring)」と呼ばれている。 新劇場の設計も設計コンペの結果、ニルとジッカルツブルクのネオルネサンス様式の設計案が採用された。1863年5月20日に着工、1865年に10月7日に外装が完成、公開され、1869年5月25日に完成した。総工費600万グルデン、客席数2324、面積8709平方メートルの大劇場である。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の上演でこけら落しを行った。建物は建設途上から「建設上のケーニヒグレーツ」、「ギリシャ風、ゴシック風、ルネッサンス風とどれもこれもとりいれ」たありふれたリバイバル建築、などと酷評された。さらに道路面が予定よりも高くなり、建物入口の階段が低くなったため、「皇帝は新劇場を『沈んだ箱』と評した」という噂もたった。これらの酷評のせいで、1868年にニルは自殺し、ジッカルツブルクは憤死した。
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