吉田兼倶
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/09 10:08 UTC 版)
時代 | 室町時代中期 - 戦国時代 |
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生誕 | 永享7年(1435年) |
死没 | 永正8年2月19日(1511年3月18日) |
改名 | 兼敏→兼倶 |
神号 | 神龍大明神 |
墓所 | (吉田神社) |
官位 | 従二位、非参議 |
氏族 | 卜部氏嫡流吉田家 |
父母 | 父:卜部兼名、母:不詳 |
兄弟 | 兼倶、卜部兼昭 |
妻 | 不詳 |
子 | 兼致、卜部兼永[1]、清原宣賢、中御門宣秀室 |
特記 事項 | 吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者。『神道大意』『日本書紀神代抄』など。 |
経歴
家系は神祇の四姓の一つである卜部氏の系譜をひき、兼倶の代に吉田家を興した。
永享7年(1435年)、卜部兼名の子として誕生。初め兼敏と称したが、文正元年(1466年)に兼倶に改名している。
始め神祇大副を務め、卜部氏の家職・家学を継承していたが、次第に家学・神道説を整理し、「神明三元五大伝神妙経」を著して吉田神道の基礎を築いた。その後も神道説の中心となる「日本書紀」神代巻と「中臣祓(なかとみはらえ)」について研鑚を重ね、後土御門天皇に進講したのを始め、公家達にも講義を行った。文明16年(1484年)、吉田神社に斎所として虚無太元尊神(そらなきおおもとみことかみ)を祀る大元宮を創建して、日本各地の神を祭ったが、伊勢神宮には反対された[2]。吉田神道の入門書であり、また根本経典でもある「唯一神道名法要集」「神道大意」「神名帳頭註」を著し、また朝廷・幕府に取り入り勢力を拡大し、みずから「神祇管領長上」と名乗り全国の神社を支配、神位・神職の位階を授与する権限を獲得した。
明応8年(1499年)に42歳で死去した子・兼致のために吉田山に寺院「神龍院」を創設し、その長老に息子の妙亀を就けた[3]。神龍院はその後梵舜など吉田家の人間が跡を継いだ[3]。
永正8年(1511年)、薨去。享年77。死後吉田社(現在の吉田神社)の境内に葬られ、神龍社にて、神龍大明神として祀られている。孫に吉田兼右[注 2][4]。
兼倶が吉田神道を唱えた背景には、両部神道や伊勢神道に対抗する意図があった[2]。兼倶は、吉田神道の主張を通じて、様々な教説にわかれていた神道を統合しようとし、室町幕府にも取り入って権勢を拡大し、神道界の権威になろうとした[5]。
備考
- 兼俱が『徒然草』の作者である吉田兼好(兼好法師)を卜部氏嫡流(吉田家の祖先)と結びつける系譜を創作・捏造したとする小川剛生の説がある[6][7]。
- 日蓮宗の三十番神(法華神道)について、日蓮宗側に質問状を送る「番神問答事件」を起こしたとされる[8][9][10]。
注釈
出典
- ^ 卜部氏平野家養子。
- ^ a b 日本史用語研究会『必携日本史用語』(四訂版)実教出版、2009年。
- ^ a b 梵舜『舜旧記』8巻 解説鎌田純一校訂、八木書店, 1999、p159
- ^ 卜部氏諸家流の系譜「思想史文献としての《神代巻抄》」原克昭、日本における宗教テクストの諸位相と統辞法、2008
- ^ 全国歴史教育研究協議会『日本史B用語集―A併記』(改訂版)山川出版社、2009年。
- ^ 小川剛生「卜部兼好伝批判-[兼好法師]から[吉田兼好]へ」『国語国文学研究』49号(熊本大学文学部、2014年)
- ^ 小川剛生 訳注『徒然草』(KADOKAWA【角川ソフィア文庫】、2015年)「解説」
- ^ 宮川 了篤 (1997). “明治期にみる日蓮宗修法史の一考察”. 印度學佛教學研究 45 (2) .
- ^ 宮川了篤 (2001). “『甲府神道問答記』考”. 東洋文化研究所 所報 5 .
- ^ 吉田叢書第一編 神道大意. 内外書籍. (1940). p. 32
- ^ 『神道大辞典 : 3巻』平凡社 p.178(国立国会図書館)
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