卜部兼倶とは? わかりやすく解説

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うらべ‐かねとも【卜部兼倶】

読み方:うらべかねとも

吉田兼倶


うらべかねとも 【卜部兼倶】


吉田兼倶

(卜部兼倶 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/03 03:13 UTC 版)

 
吉田兼倶
時代 室町時代中期 - 戦国時代
生誕 永享7年(1435年
死没 永正8年2月19日1511年3月18日
改名 兼敏→兼倶
神号 神龍大明神
墓所 吉田神社
官位 従二位非参議
氏族 卜部氏嫡流吉田家
父母 父:卜部兼名、母:不詳
兄弟 兼倶、卜部兼昭
不詳
兼致、卜部兼永[1]清原宣賢中御門宣秀
特記
事項
吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者。『神道大意』『日本書紀神代抄』など。
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吉田 兼倶(よしだ かねとも)は、室町時代中期から戦国時代にかけての神道家。卜部兼名の子。官位従二位非参議本姓卜部氏吉田神社神主吉田神道(唯一神道)の事実上の創始者[注 1]

経歴

生い立ちと初期の活動

永享7年(1435年)、神祇権大副であった卜部兼名の子として生まれる。初名は兼敏(かねとし)[2]卜部氏は亀卜道の家として神祇官で勢力を得た家系であり、平安時代中期の卜部兼親・卜部兼国の時代に吉田・平野の2流に分かれた。吉田卜部氏吉田神社祠官を、平野卜部氏は平野神社祠官を務め、氏長者はこの2流が交替で受け継いだ[3][4]

康富記』によれば兼敏は、文安4年(1447年)9月、13歳にして伊勢神嘗祭幣帛使を務めており、これが文献上の初見である[4][5]宝徳元年(1449年)5月の軒廊御卜(朝廷での卜占)においては、父・兼名、兄・兼香とともに、宮主の職で奉仕する[5]文正元年(1466年)、名前を兼倶に改める[6]。この年の12月、後土御門天皇即位にあたっての大嘗会において、卜部として中心的役割を果たす[5]応仁元年(1467年)、昇殿を聴され、侍従・神祇権大副に任ぜられる[4]。このように、応仁以前の兼倶の業績は岡田莊司の言葉を借りるならば「卜部氏嫡系として順調な道」をたどるものであり、吉田神道成立にあたる特筆すべき事績は見あたらない[4]

吉田神道の創唱

兼倶が吉田神道を創唱する契機となったのは、応仁元年に起こり、文明9年(1477年)までおよそ10年にわたり続いた応仁の乱である[7]。応仁元年の6月には兼倶自邸に強盗が入り、放火したことをきっかけに京中が大火となったほか、翌年7月には畠山大内一色ら西軍が吉田神社に放火し、社人を殺害した。当時32歳であった兼倶は、この出来事に一時逐電するほどの衝撃を受ける[8]。文明年間初期には兼倶は経典の偽作をはじめ、自邸にその祭祀施設である斎場所を建てる[9]。兼倶により創始されたこの独自の神道のことを、吉田神道(唯一神道、卜部神道、元本宗源神道とも)という[10]

文明8年(1476年)以降、兼倶は「神祇管領勾当長上」「神祇長上」「神道長上」などを名乗り[4]、自らが神祇道の長である旨を主張した[7]。彼は自らの先祖にあたる卜部兼延、卜部兼直などに仮託した偽書を執筆するなどして自説の展開を図り[7]、さらには後土御門天皇、勝仁親王をはじめとする公家・殿上人、将軍家、禅僧など幅広い人物に神道文献および『日本書紀』の伝授をおこなった。兼倶は後土御門天皇への進講の功により、従二位に昇叙した[4]。文明10年(1487年)には兼倶が「神武天皇以来日本国中の神祇を祀る所」であると論じた斎場所が吉田山山麓に鎮座され、文明16年(1484年)にはその根本の神であるとする「虚無大元尊神」を祀る斎場所大元宮が設立された[7]。文明19年(1487年)には吉田神道の根本伝書となる『唯一神道名法要集』『神道大意』が著わされた。延徳元年(1489年)には伊勢神宮の神器が吉田山に降臨したと密奏する(延徳密奏事件)も、これは三条西実隆ら公卿、神宮祠官を憤慨させた[4]明応8年(1499年)に42歳で死去した子・兼致のために吉田山に寺院「神龍院」を創設し、その長老に息子の妙亀を就けた[11]。神龍院はその後梵舜など吉田家の人間が跡を継いだ[11]

吉田兼倶が神龍大明神として祀られる神龍社

永正8年2月19日(1511年3月18日)に77歳で死没し、その遺骸は斎場所太元宮の北方に葬られた[4]。神竜大明神と号され、神竜社が建立された[7]。孫に吉田兼右[12][13]。兼倶が吉田神道を唱えた背景には、両部神道伊勢神道に対抗する意図があった[14]。兼倶は、吉田神道の主張を通じて、様々な教説にわかれていた神道を統合しようとし、室町幕府にも取り入って権勢を拡大し、神道界の権威になろうとした[15]

備考

著書

  • 『神明三元五大伝神妙経』:吉田神道の経典。
  • 唯一神道名法要集』:吉田兼倶の主著。吉田神道の経典。卜部兼延に仮託されている。
  • 神道大意』:文明18年(1486年)。『神道大系』論説篇卜部神道(上)所収。『吉田叢書』第1篇所収。
  • 『神道大意』:吉田兼直に仮託されている。
  • 『神宗国源論』
  • 『十八神道源起抄』
  • 『日本書紀神代巻抄』:『日本書紀』神代巻の注釈書。
  • 『神名帳頭註』:『延喜式』神名帳の注釈書。
  • 景徐周麟『中臣祓聞書』:景徐周麟が記した吉田兼倶の講義ノート。『神道大系』古典註釈篇中臣祓注釈所収。
  • 『中臣祓抄』:吉田兼倶の講義ノート。
  • 『番神問答記』:日蓮宗側と問答する相手とされている[21]

脚注

注釈

  1. ^ 「事実上」というのは、建前としては吉田神道は吉田家に古くから伝わっている神道説だということになっているからである。

出典

  1. ^ 卜部氏平野家養子。
  2. ^ 鎌田純一卜部兼倶」『日本大百科全書(ニッポニカ)』2017年10月19日https://kotobank.jp/word/%E5%8D%9C%E9%83%A8%E5%85%BC%E5%80%B6コトバンクより2025年11月3日閲覧 
  3. ^ 岡田 1993b.
  4. ^ a b c d e f g h 岡田 1993.
  5. ^ a b c 岡田 2010, p. 196.
  6. ^ 岡田 2010, p. 207.
  7. ^ a b c d e 新井 2022.
  8. ^ 岡田 2010, p. 197.
  9. ^ 岡田 2010, p. 201.
  10. ^ 伊藤 2020, No.2525/4753.
  11. ^ a b 梵舜『舜旧記』8巻 解説鎌田純一校訂、八木書店, 1999、p159
  12. ^ 清原宣賢の実子で兼致の子・兼満の養子。
  13. ^ 卜部氏諸家流の系譜「思想史文献としての《神代巻抄》」原克昭、日本における宗教テクストの諸位相と統辞法、2008
  14. ^ 日本史用語研究会『必携日本史用語』(四訂版)実教出版、2009年。 
  15. ^ 全国歴史教育研究協議会『日本史B用語集―A併記』(改訂版)山川出版社、2009年。 
  16. ^ 小川剛生「卜部兼好伝批判-[兼好法師]から[吉田兼好]へ」『国語国文学研究』49号(熊本大学文学部、2014年)
  17. ^ 小川剛生 訳注『徒然草』(KADOKAWA【角川ソフィア文庫】、2015年)「解説」
  18. ^ 宮川 了篤 (1997). “明治期にみる日蓮宗修法史の一考察”. 印度學佛教學研究 45 (2). https://doi.org/10.4259/ibk.45.669. 
  19. ^ 宮川了篤 (2001). “『甲府神道問答記』考”. 東洋文化研究所 所報 5. https://doi.org/10.15054/00000034. 
  20. ^ 吉田叢書第一編 神道大意. 内外書籍. (1940). p. 32 
  21. ^ 神道大辞典 : 3巻』平凡社 p.178(国立国会図書館)

参考文献

関連項目

外部リンク



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