伊藤博文
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死後
埋葬は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所。霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、昭和34年(1959年)に近隣の束荷神社境内に遷座した。記念公園には生家(復元)や銅像、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがある。平成18年(2006年)5月、山口県はこの公園に隣接した山林に、森林づくり県民税で「伊藤公の森」を整備して光市に引き渡した。のちに日本銀行券C千円券(1963年11月1日 - 1984年11月1日発行)の肖像として採用された。
人物・業績
- 明治天皇との関係
- 4度も内閣総理大臣を務めた国家の重鎮・伊藤と明治天皇の関係は、常に良好であったわけではない。明治10年代(1877年 - 1886年)、天皇は元田永孚・佐々木高行ら保守的な宮中側近らを信任したため、近代化を進める伊藤ら太政官首脳との関係は円滑でないこともあった(後年、伊藤が初代の内閣総理大臣と宮内大臣を兼ねた背景には宮中保守派を抑えるとともに、天皇に立憲君主制に対する理解を深めてもらう面があり、機務六条を天皇に提示して認められている)。また、伊藤が立憲政友会を結成する際には政党嫌いの天皇の不興を買い、その説得に苦慮したという。
- しかし、明治天皇は伊藤を信頼していた。明治天皇の好みの性格は、お世辞を言わない無骨な正直者で、金銭にきれいなことだった。伊藤はこれに当てはまり、伊藤に私財のないこと[注釈 7]を知った明治天皇は、明治31年(1898年)に10万円のお手許金を伊藤に与えている。ただし、後述にもある伊藤の芸者好きに対してはほどほどにするようにと苦言を呈したこともあった。日露戦争開戦直前の御前会議当日の早朝、伊藤に即刻参内せよという勅旨が下り、伊藤が参内すると明治天皇は夜着のまま伊藤を引見し「前もって伊藤の考えを聞いておきたい」と述べた[48]。これに対し伊藤は「万一わが国に利あらずば、畏れながら陛下におかせられても重大なお覚悟が必要かと存じます」と奏上した[48]。また、伊藤は天皇から、東京を離れてはならぬとまで命じられていた[48]。
- 女子教育
- 明治19年(1886年)、当時あまり顧みられていなかった女子教育の必要性を痛感した伊藤は、自らが創立委員長となり「女子教育奨励会創立委員会(翌年「女子教育奨励会」)」を創設した。委員には、伊藤の他に実業家の渋沢栄一、岩崎弥之助や、東京帝国大学教授のジェムス・ディクソンらが加わり、東京女学館を創設するなど女子教育の普及に積極的に取り組んだ。また、伊藤は日本女子大学の創設者、成瀬仁蔵から女子大学設立計画への協力を求められ、これに協力した。
- 女子教育者であった津田梅子とは岩倉使節団で渡米のとき同じ船に乗ってからの交流があった。日本に帰ってから津田は伊藤への英語指導や通訳のため雇われて伊藤家に滞在し、伊藤の娘の家庭教師となり、また「桃夭女塾」へ英語教師として通っている。津田は明治18年(1885年)に伊藤に推薦され、学習院女学部から独立して設立された華族女学校で英語教師として教えることとなった。また、津田とは気が合ったのか、帰宅してから家庭教師の津田と国の将来について語り合っていた。伊藤からみれば津田は同じ日本人の婦人というよりは、顧問のつもりであったという[49]。
- 暮らしぶり
- 衣食住には頓着しない性格で、大磯で伊藤と隣り合わせで住んでいた西園寺公望は食事に招かれても粗末なものばかりで難渋したといい、晩年には私邸の滄浪閣を売り払って大井の恩賜館にでも隠棲しようかと梅子夫人を呆れさせてもいる。首相在任時にも自室の装飾などには無関心で、人から高価な珍品をもらっても惜しげもなく他人に贈ってしまったりしている。庭掃除などを官邸の使用人が手抜きしても気にもかけず、そのため次の総理が伊藤と知るや、使用人一同万歳したと言われている[50]。
- 女好き
- 女好きは当時から有名であり、女遊びの相手が掃いて捨てるほどいたことから「箒」(ほうき)という綽名(あだな)がついた。時には先述の明治天皇にすら「少し女遊びを控えてはどうか」と窘められたこともあるという。地方に行った際には一流の芸者ではなく、二流三流の芸者をよく指名していたという。これは、伊藤の論理によると「その土地々々の一流の芸者は、地元の有力者が後ろ盾にいる。そういう人間と揉め事を起こさないようにするには、一流ではない芸者を指名する必要がある」とのことであった。40度の高熱に浮かされているときでも両側に芸者2人をはべらせたという。柳橋の16歳の芸者りょうを大正天皇の伯父・柳原前光と後落を争い、結果、前光が囲って産まれたのが柳原白蓮である。このような様を、宮武外骨は自身が発行する一連の新聞で、好色漢の代表格としてパロディの手法を使いたびたび取り上げた。しかし実際は、伊藤にはそれほど多くの子どもはできなかった。衆議院議員松本剛明はその子孫の一人である。
- ちなみに日本で最初のカーセックスをした人物と言われる。
- 民族衣装
- 伊藤と妻の梅子が韓国の民族衣装を着ている写真がある[51]。韓国統監として朝鮮人の民族衣装を身に纏った。伊藤はまた韓国皇太子李垠を日本に招き、日本語教育を行っている。
- 操り人形発言
- お雇い外国人であったドイツ人医師のエルヴィン・フォン・ベルツは『ベルツの日記』の中で、伊藤が会議の席上、半ば有栖川宮威仁親王の方を向き「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、到るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」と言いながら、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたことを紹介している。
- 通称の変遷
- 当初は自身の曽祖父「利八郎」と「助左衛門」から「利」と「助」をとり「利助(りすけ)」と名づけられたが「としすけ」とも読み「としすけ」の音から「俊輔」とも書かれるようになり、そうなると今度は「しゅんすけ」と読まれることになり、その音から「春輔」とも表記され、こんどはそれが「しゅんぽ」と音読されたので、最終的に「春畝」を号にしたものである。
- フグ料理との関わり
- 古来から毒魚とされ、明治維新後も食用を禁止されていたふぐ料理を明治21年(1888年)、周囲の反対を押し切って下関にて食した際に大変気に入り、当時の山口県知事に解禁するよう語って食用商用のきっかけをつくったと伝えられている。
- 父十蔵の厳しい教育と少年時代の厳しい境遇
- 萩における利助は、「小若党」として藩士諸家のもとで雑用を務めていた。ある日、利助の仕事ぶりを十蔵が密かに窺ったことがある。十二歳の利助は福原家の玄関近くの一間で、夜中一人で留守番をしていたが、父の姿に気付いて、泣きながらこれにすがりつかんとした。父は子を厳しく叱りつけ、そのまま去ったという[52]。
- 児玉家に奉公していた時期、他家を訪問していた主人は、雪が降ってきたので、履物を借りて帰宅した。主人は利助に命じ、その履物を先方に返却してくるようにと言った。利助は大雪を冒して出かけ、その帰り道、余りの寒さに実家に立ち寄らんとする。しかし父は、白湯一杯さえ与えず利助を追い返したという[52]。
- その他のエピソード
- 当時大磯には伊藤をはじめ、政治家の別邸が立ち並んでいたが、土地には伊藤の人柄について次のような逸話が残っている。「山縣は護衛の人が付き、陸奥は仕込み杖をもつて散歩するが、伊藤博文は、平服で一人テクテク歩き、時には着物のしりをはしょつた姿で出歩き、農家に立ち寄り話しかけ、米の値段や野菜の価格なども聞き、暮らしのことなども畑の畦に腰掛け老人相手に話すことがあった。村の農民や漁民などは伊藤を「テイショウ(大将)」と気軽に呼んで、話しかけた」
- 憲法制定に際して担当官に対し「新憲法を制定するに、伊藤は一法律学者であり、汝らもまた一法律学者である。それ故、我が考えが非也と思わば、どこまでも非也として意見せよ。意見を争わせることがすなわち新憲法を完全ならしめるものである」と訓示している[54]。今よりも特権意識の強い時代の政治家としては異例の見識であるとされている。
嗜好
- 関直彦 「伊藤伯もまた葉巻を好まる。嘗て余が東京日日新聞の社長たりし時、しばし伺候しては度々御厄介になりしのみか、憲法発布後その自著の憲法訳義一冊を自著して贈られたれば、その御礼に何がなと思いつつ葉巻が嗜好と気付きたれば、横浜に出向き、洋館の煙草屋にて一本一円ばかりの葉巻(専売前ゆえ、今日の二円のものより遥かに上等のもの)を二箱(五十本)を贈呈せり。その後十日ばかりを経て、再び伺候せしに、公は御機嫌にて、『関、貴公もシガーが好きらしいが、良い葉巻を一本分けてやろう、喫んで見よ』とて一本を割愛せらる。見れば先日余より贈呈したるものなるが、公は之を忘れられて、自慢せられて余に分かたれしものなりき。頭にはただ国家あるのみ、誰から何を贈られしか、そんな小事は気にも止めず、とんと忘却せらるるも誠に無理ならぬことなり。余としては進呈せしものが、公の意に叶いしを知り、大いに満足でありし」[55]
- 松井広吉
- 「公は午餐に大抵軽い洋食を取られるが、晩は日本食が主で、時として洋食だとのこと。酒は葡萄酒と日本酒であった。葉巻煙草は当時の金で一本五十銭位なのを吹かし、鬚の焦るまで吸われる」[56]
- 「早くから茶道の嗜好が深く、茶会の料理にも抜群の手腕があった。現に客などを招かれる場合には、公自身台所に出張して、一々盬梅を嘗め試みて、矢釜しく板前を指揮されたという。公の薨去後、同家の料理人は麻布桜田町へ興津庵という料亭を出したが、流石に公から仕込まれた包丁の腕前で、食通を悦ばせている。来客にも公と縁故のあった人々が多く、山縣公、杉孫七郎子、その他の連中も皆来客帳に自署しおられ、今や手狭ながら帝都名物の一つともなっている」[56]
- 吉田武子「公爵は琵琶が何よりもお好きのこととて、毎日自分に琵琶を弾ぜしめ、これを聞くを楽しみとなし居られたり」[57]
評価
伊藤博文は豊富な国際感覚を持っていた穏健な開明派で、日本の近代化、特に憲法制定とその運用を通じて立憲政治を日本に定着させた功績が大きい[1]。
明治初年より開明派と目されていた人物で、諸制度の近代化と立憲制への転換を主導した。議会の開設にあたって当初伊藤は「超然主義」を宣言して政党を無視する立場をとろうとしたが、初期議会の経験から政党内閣の必要性を痛感すると、自ら率先して政党の組織に乗り出すなど、状況の変化に柔軟に対応する人物だった[2]。
アジア最初の立憲体制[注釈 8]の生みの親であり、その立憲体制の上で政治家として活躍した最初の議会政治家として、西洋諸国からも高い評価を得ている[58]。
伊藤は1882年(明治15年)から翌年にかけてドイツ・オーストリア・イギリスなどヨーロッパ諸国を歴訪して憲法調査を行った。その際に伊藤は議会権力の弱いドイツ・オーストリア型ばかりに固執していたわけではなく、議会権力が強力なイギリス型も将来の視野に入れていた。そして1889年(明治22年)に明治憲法を制定して以降、明治天皇の理解も得て数度の憲法危機を憲法停止させずに乗り超えて立憲体制を維持した。1900年(明治33年)に立憲政友会を創設した後は政党政治も推進した。西洋のドイツでさえ憲法を一度停止する事態に追い込まれていたため、憲法を一度も停止することなく立憲体制を存続させた伊藤は、イギリスはじめ西欧諸国から立憲主義・議会政治の父として高い評価を受け続けた[59]。
外交面では冷徹な政治的リアニズムに基づき、国際協調路線を重視し、日露戦争開戦にも朝鮮併合にも慎重だった[6]。他方で朝鮮や中国に対する政策の面では強硬姿勢をとることもあり、日清戦争の講和交渉や日露戦争後の対韓政策などにおいて日本の利益実現のため強圧的交渉を行っている[2]。
伊藤の穏健な政治路線は、山県有朋らの保守派官僚層と対立することが多く、彼らは伊藤の外交を軟弱外交と批判し、また伊藤が政党を結成することに対しても否定的反応を示していたが、明治天皇からの信任は強く、明治期を通じて伊藤は元老中第一の実力者として内外政策に大きな影響力を持った[2]。陽気な開放的性格で国民からの人気は高かったが、強固な派閥を作らなかったため、晩年の国内政治への影響力は、広い派閥網を形成した山県有朋に劣ったという[1]。
同時代人の評価
- 吉田松陰
- 「才劣り、学幼し。しかし、性質は素直で華美になびかず、僕すこぶる之を愛す」
- 「俊輔、周旋(政治)の才あり」
- 大久保利通 「伊藤は長州の人ではあるが実は天下の英物である。成程才子に相違ないけれども決して君の言う様な才子ぢゃァない。国家経綸上に就いて、自分はモウ悉く伊藤に相談をする。一から十まで話す。鎖港攘夷の時と違うのであるからドウかよく百年の後を達観する程の見識ある人とよく用いなければならぬ。それに当る者は伊藤である。しっかり見識が立ってそうして之れを応用する力の有る人である。私の政策は悉く彼の人に相談する。彼の人と共に談ってやるのである。すっかり信じて秘談を話す」[60]
- 井上馨は自身が刺客に襲われた際に駆けつけた伊藤の様子について「(伊藤は)自分の枕辺に涙をホロホロ落とした。自分は(喋ることも出来ないので)ただ手まねで、お前も危ないから一刻も早く帰ってくれと頼むようにせきたてたけれど、なかなか枕許を離れようとしなかった」と語っている。
- 伊藤真一 「私の記憶に残っている父は、非常に記憶力のいい人でした。古い話を何月何日まで正確に覚えておりました。また浴衣を着て胡坐をかいている時でも、話が明治天皇のことになると、自分はもちろん私達もきちんと正座させられ『天子様がね……』というように話をされたものです。『キサマ維新史を読め』父は私に良くこう申しました」[61]
- 大隈重信
- 「伊藤氏の長所は理想を立てて組織的に仕組む、特に制度法規を立てる才覚は優れていた。準備には非常な手数を要するし、道具立ては面倒であった。氏は激烈な争いをしなかった。まず勢いに促されてすると云うほうだったから敵に対しても味方に対しても態度の鮮明ならぬ事もあった。伊藤のやり口は陽気で派手で、それに政治上の功名心がどこまでも強い人であるから、人心の収攬なども中々考えていた」
- 「専門分野の知識に偏るのではなく多方面に知識が豊富な政治家であった」
- 「常に国家のために政治を行ふて、野心のために行はなかった」[62]。
- 松方正義 「(慶応三年)その時分から伊藤公は才気横溢して諸藩士の間に頗る重んぜられて居た。(新政府においても)工業に、法制に、行政に何事でも適く処として可ならざるはなかったのは、実に伊藤公が大智円満の人で、他に比類の少ない所であろうと思う」[64]
- 後藤象二郎 「公に於いてその最も偉大なりし点を言えば、その生涯の常に発展しつつ、進んで嘗て一日も一所に停滞する事をなさず、無限の精力を以て一意公に奉じ恬淡無欲遂に何事にも拘泥する事をしなかったという点にある。もし公の一生を通じ、何れの時代がその最も精力を蓋し、その最も能く修養鍛錬を経た時代かといえば、木戸、大久保両公の間に周旋して、その融和を計り、両公を開発指導して、その智願を開かしめ、終に維新回天の事業を成さしめたその時であろう。維新の業成ってその位置を作ってからは、周囲の人々は却って公を開発指導した。公はこの開発指導を受けて、能く之を消化し、之を容れて、即ち今日を円熟した人である。公の如く偉大にして、しかも順潮に最も立派なる一生を終始した人は、蓋し何れの時代の偉人と比較するも到底相比すべき者は一人もなかろう」[65]
- 板垣退助 「予は既往に於いては公を敵にもし、又味方にもしたりき。さればこの点に於いては単に公と交際厚き人の語る月旦よりは、予の述ぶる所は幾分かの興味多きを信ず。概言すれば、伊藤公は明治の国家に対しての大功労者たるに疑いを容れざるなり。木戸時代の知恵袋は伊藤公なりき。大久保を援けたるもまた伊藤公なりき。公は確かに明治政治家の大立者として、また文明の指導者として、終生忘る可からざるの恩人なり。公嘗て予に語って曰く『予は朝に在って憲法に尽力せり。君は野に在って憲政の民を指導促進せり。およそ人は始めあって終わり無かる可からず。憲政有終の美をなすは、互いの義務となさざる可からず』と。以ってその憲政指導者としての抱負を見るに足る可し」[66]
- 西園寺公望 「伊藤の話を聞いて見ると、その経綸の順序が立って居って、その遣り方には上手下手はあるかも知らんが、その順序は結構だと思った。また是だけの話が出来る人は多くあるまいと感心したのです。(大久保は)政治の事は殆んど伊藤に任せて居ったのであって、伊藤はその信任を得てこれを背景としてつかえて居ったから行けたのである。その代り総ての事が軍配は薩摩の方へ五分の三、長州の方へ五分の二を取ると云う地位を保って居た。且つ至って聡明な人であったから遣る事が私の心でないから行けたのです。その時分から能く言った事であるが、伊藤は鈍忠だと行って居た。その間には反対側からは色々悪口を言われたり、俗吏等からは怪しく見られたりした事もあったろう。伊藤は極く淡泊で金を出してやる事が嫌いであった。また自分と交渉がなければ相手にせぬと云うような風であった。山縣や大隈などと違って、薩摩人とも違って、執着が少ない。要するに何うも人を使う事を知らぬのです。山縣の評に伊藤は善い人だが自分の補佐の人を得なかったと今でも言うが兎に角、自分が聡明過ぎて居った為めに人を使ってはもどかしいのであったろうと思われる。それで子分と云う者がなかったようです。この点に於いては井上程人を世話すると云う事が出来なかったようです。また伊藤が人才を用うると云う場合には何処でも構いはない。それは長州人であろうと、薩摩人であろうとそんなことは構わなかった。しかし薩摩人には余程鉾先を避けて居ったようです。それも時代に依りますが、盛んな時と晩年とは余程差がありますが、先ず自分のものを一つ渡して向うのものを一つ取ろうと云う主義であった。桂(太郎)などは取るだけは自分で取ろうと云うのであったが、伊藤は之と違う。大久保の評でも伊藤は聡明な人であると云う事をたしかに言って居る。岩倉もそう言って居る。伊藤の一生に就て支那の李鴻章が伊藤を評して治国の才と言って居る。言を換えて云えば王佐の才と云うも同様で治国の才は容易く許すべきものではないのですが、是れがチャンと支那の歴史に載って居るのです。政党内閣を理想としたのも伊藤です。その点に於いては山縣などと違って憲法政治をやるようにしたのは伊藤の力であるのに徴してもわかるのです。一体伊藤は理屈が好きで演説などはまるで下手だけれども座談は中々上手で一杯酒でも飲んで調子に乗って来るとその鉾先あたるべからざるものであった。伊藤は勉強家ではなかったようです。尤も必要な時には偉い勉強もしたのですが、普段は決してしない。マア偉い勉強家とは思いません。手紙を書くことは中々上手でした。しかもその文章が一番上手で是れも初めのほうはそうでもなかったようですが、晩年に至ってはいくらか注意して書いたようでした。兎に角非常に聡明で智慧があったから前途を見て是れは止した方が宜いと見たら直ぐなげ出して仕舞う。前にも云う通り総てが彼の取りえは碁盤の目を盛ってからと云うそれだけです。それに基礎を置いて掛かるのだから究極に陥って腰弱く逃げ出すと云うような事はなかった。また涙脆いとか義侠心が何うと云う事は余り感じませんが廉潔であったことは非常なものです。兎に角皇室中心と云う事に基いて実際自ら手を附けてやって居る。誰でも忠義々々と口には言って居るけれども、実行と云うに至っては中々六かしい事である。それが維新後沢山の法規が出来て今にその遺志をつないでやって居るような訳で是れは伊藤の経綸の成功と謂って宜かろうと思います。伊藤の事を明治の叔孫通と評した者がありますが、是れは半分は悪口のようですが……。才不才の間と云う事を云いますが、明暗双双と云い伊藤はその評です。一方から見ると甚だ愚のような、目から鼻に抜けるような才ではないようでした。鈍なような人で所謂明ばかりでなく暗の方が沢山ありはすまいかと思うような事がありました。国家の政治の才から云えば、前申したようでありますが、個人としてつきあって見ますと明も沢山あるが暗の方も沢山あったようです。正直で一寸見ると鈍根ですナア」[67]
- 渋沢栄一
- 「私が初めて公にお目にかかったのは明治二年で、当時大蔵省に改正係というものがあって、制度文物百般の調査をして段々改善をして行くという今日の調査局見たやうなものであった。余は即ち其の掛り長で伊藤公は総裁というような役であった。其頃から公は事務に熱心で何も彼も自分で遣る。決して事を疎かにするような事はなかった。勿論当時は極めて百事錯綜して大いに改善して行かなければならぬという時であるから、安閑として椅子に凭れて居る訳にも行かなかった。併し公は特に熱心であった。人は地位が進み身分が高まると、兎角自ずから事務を執ることをしない。皆下級に命じて自分は何もしないで唯だ坐って居るという風であるが、公は決して其の事がない。是れは其の当時ばかりでなく終生変わらなかったようである。三十九年頃余は朝鮮に行って公に面した際にも公は卓によって切りに事務を執って居た。電信のようなものでも、又た一寸した意見書などのようなものでも総て自分で書かれた。実に敬服すべきである」[68]
- 「どうも激しい議論家で、どこまでも論じて、相手を説破せねば止まぬという風の人でありました」[69]
- 「なかなか優れた才を持っておられた方ゆえ、志は政治にあっても、いろいろさまざまの芸があらせられた御仁で、詩も作れば書も達者、音曲のことも心得ておられるという風であったのだ。しかしやはり一生政治に囚われ暮された方で、死ぬまで政治の囚われより全く脱してしまわれる訳には参らなかったらしく思える。つまり哈爾賓で亡くなられるまで、政治癖から抜け切れなかった方であるとみるのが至当だろう。しかしまた公が政治に囚われて、政治に終始せられた結果、今日の日本をして、立憲国としての繁栄を享有するを得せしむるに至らせられたのは、全く以て同公に先見の明があらせられたからの事で、その功績に至っては、決して忘却すべからざるものである。この一点のみでも、伊藤公は実に優れた豪い人であったと謂わねばならぬのだ」[70]
- 「伊藤公は何事においても、常に自分が一番えらい者であるということになっていたかった人である。そうじて長州人は薩摩人に比べれば人当たりが穏当なものであり、伊藤公とても決して人当たりが悪かった方ではない。至極穏当なところのあった御仁ではあるが、それでも横合いから他人が出てきて、公の知らずにいることを教えてあげようとでもすれば、『そんなことは疾うの昔から知ってるぞ』といったような態度に出られたもので、何事につけ、自分が一番えらく、自分が一番物知りになっていなければ気が済まなかった御仁である。伊藤公は碁なども打たれたが、決して上手ではなかった。むしろ下手な方でザル碁(漏れの多い下手くそな碁)の方だったのだが、それでもなお碁において『自分が一番だ』ということになっていたがった方だった。いかに盤を囲んで勝負が決まり、ご自分が負けになっても、決して『自分は碁が下手である』などと参ってしまわず、何のカンのと理屈をこねあげて、『やはり自分が、一番碁が上手』ということにしてしまわれたものである。また他人が起草した文章なんかを見られても、決してそれをすぐ誉めて、『なかなかうまい』などとはいわなかったものである。『そこの文字の用い方がどうである』『それでは少し書き方が長過ぎる』『そんなことは書かなくともいい』『もう少し何とか書きようがありそうなものだ』とか、いろいろ好んで難癖をつけた。文章においても『やはり自分が一番えらいのだ』ということになっていないと、気の済まなかった方である。しかし、『そんならどう訂正したらよろしかろうか』と、一歩踏み込んで問いかけてみると、公はもともと文章のうまく書けなかった御仁であるから、ちゃんとした返答ができず、とても曖昧な調子で、『そこはその……何とか考えて……うまく』などと答えられ、確かな文案があるのでも何でもなかったものである」[71]
- 「伊藤公の如きは何事にも自分が一番豪いと思ふ慢心があつて。下問を恥ぢぬといふ徳はなかつたやうに思はる」
- 「明治維新前後には随分人物も多く現れたが。伊藤公でも、大隈候でもまた井上候でも。皆善に伐りたがる方であつて「おれは是程豪いぞ」と言はぬ計りに吹聴せられ。善に伐らぬ人は甚だ少なかつた」[72]
- 谷干城 「公は憲法制定の大功臣である。初め自由党のごときは乱暴にも主権在民的憲法論を振り回して急いで憲政を敷くことを企図したものであるが、公はこの怒涛澎湃の中を漕ぎ抜けて万事遺漏なき準備の後、明治22年に至って公の起草した憲法を発布し、欧州の憲法史に見られるような凄惨な流血の歴史を繰り返すことなく、平和円満のうちに我が国民を憲政の恩恵に浴せしめた。当時もし自由党の言う通りに行って、明治8年、9年ないし明治14年、15年の段階で憲法を発布したらどうだろう。我が国民はいまだ憲法が何であるか理解できる状況にない故にその議会政治も専らケンケンガクガクとした政客の論争で終わり、真の憲政の運用は到底実現することはなかったであろう。この点においても伊藤公は特に偉いと言わねばならない」[73]。
- 尾崎行雄
- 「余が公の人物に於いて最も敬服せるは第一に公の人格が高潔にして且つ其の政治道徳の比較的秀でたる事、第二に性質円満にして調和的資質に富まれたる事、第三に事物に執拗凝滞せず且つ極めて利欲の念に淡かりし事、第四に天真流露、愛憎を以て公器を私せざりし事等の諸点なり」[74]
- 「山縣は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山縣には私党ができる。一方、伊藤はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうとする者はいなかった。しかし伊藤はそれを以て自己の誇りとしていた」[75]
- 「伊藤伯は才子なり。才子の功労を経たるものなり稟質多血性なるがため、多情多愛にして、その嗜好する所広く且つ多し。詩文を作り、書画を好み、英語を善くし、弁論巧みに、学は即ち和漢洋の三端を窺へり。もし才芸の多少を比較すれば、世間恐らくは之が右に出るもの少なかるべし。(中略)伊藤伯の手腕は、山縣伯と比すれば頗る敏活なるべし。然れども勇断果快の資質に乏しきが故、鋭利の働きをなすあたわず。常に調和瀰縫の忙しくして、その束縛する所となる」[76]
- 「伊藤公の人物について最も特色と見るべきことは執着心のないことである。人に対しても物に対しても。だから役人でも気に入る間は思い切って使うが、役に立たなくなると平気で棄ててしまう。あるとき身辺の者が公に向って『犬養でも星でも彼等には終身離れぬ乾分が大分ある』と話したところ、公は『俺はその反対で、乾分を作らぬということが俺の長所である』といった」[77]
- 「経済のことは若い頃から井上候に一任して少しも研究しなかったためか、公私ともに公の経済知識はすこぶる幼稚であった」[77]
- 「伊藤公は大変怒りっぽい人だった」[77]
- 「公の主義思想は何事に対しても決して極端に走らず、常に中正を保ち、調和を旨とせられたり。世間往々公を評するに、姑息、八方美人を以てしたるは之が為めなり。是れ実に公の短所たると同時にまた得難き長所なりき。公はまた毫も物に凝滞せざる人なりき。例えば政治上に於ても敵を窮地に追及して完膚なからしむるが如きは、公の決して為さざりし所なり。その他一器一物に付ても毫も之に執着するの念なく、従って利欲に極めて冷淡なりしこと、また公の一美質とす」[74]
- 「伊藤のしたことに過失はあっても悪意はなく、あれくらい公平に国家のためを思えば、まず立派な政治家といってよかろう」[78]
- 三浦梧楼
- 「伊藤とは、俺は小僧の時からの知り合いだから、まあよく知って居るほうぢゃろう。あれはなかなか豪い奴だよ。井上がいう様に、伊藤の頭脳はあくまで組織的だ。それに欲がない。金の点に於いては大隈、伊藤は全く綺麗なものぢゃ。しかしな、欲といっても金ばかりが欲ぢゃないからのう。欲といえば、それは名誉さ。全く名誉の点に至っちゃ、伊藤は三つ四つの子供だよ。(中略)どうもその名誉欲は非常のものだった」[79]
- 「伊藤は存外稚気があって、比較的率直だった。山縣は『俺は唯一介の武弁だ』と言った調子で、表をつまらぬもののように見せかけておった。これが二人の間の相異なる点である。ある時、郷里のものが東京に出て来て、二人の所を訪ねた。それが後にて、『山縣さんへ行くと、お取扱いが誠に親切であったが、伊藤さんは大違いで、ろくに話も聞いて下さらない』と言うから、我輩が『なるほどそれはちょっと左様見えるが、伊藤の泣く折りは、本当の涙を出すが、どうも目白(山縣)の涙は、当てにならんぜ』と言ったことだが、これは二人に対する適評だと思う」[80]
- 松井広吉
- 「英語はもとより達者であり、漢詩漢文から筆札も巧なので、その秘書官たる者は骨が折れるようで、実は一方ならぬ気苦労で、容易な人には勤まらぬ。伊東巳代治伯の如き人物なればこそ秘書官も書記官も勤まると、一時公の秘書官となった頭元元貞氏がシミジミ語られたこともある」[56]
- 「公の身体は先天的に強い上、少壮から鍛えに鍛えられた為か、驚くべき頑健振りで、喉頭病に罹られた場合など、医師の与えた濃茶褐色の薬液をば、公自身毛筆に浸して、無造作に口中へ突っ込み、グルグルかき回し、跡をうがいして、またまた煙草も吸い、酒も飲み続けられるという状態で、余はその無茶と健康とに舌を巻かざるを得なんだ」[56]
- 「公が開明的で、公明で、政権になど執着されぬ美点は別に伝わるものがあるから、余の申すを待たぬが、公は辞職をして悠々野鶴を学ぶと、やがて体重一貫匁位怱に増加するよといわれたことが一再でなかった。以て国家に奉公の苦心の尋常ならぬことが知られると共に、余などは自然に頭の下がるを禁じ得なんだ」[56]
- 長澤柳政太郎 「明治十七八年当時に於いては、殆んど学問するものは寧ろ愚物視せられしを以て教育界の沈鬱せしもまたむべなりしなり。伊藤公が主としてこの情弊を破られ、人材登用の為に文官任用令を制定し、大いに教育ある人士を登用するの途を開かれたるは、単に行政上の功業たるのみならず、之が為に教育界の興隆を勧め、遂に今日の盛況を得たるなり。之れ実に伊藤公施政の結果として、国民は公の恩を謝せざるべからず」[85]
- 三輪田真佐子 「亡夫綱一郎と伊藤さんとは維新時代からの知己で御座いまして、その時分から能く御目に懸って居りましたが、昔から金銭と云う事には一向おかまいが無いようで御座いました。明治の初年から五六年頃迄のことでした、全国有志会と申すものが建てられまして、伊藤さんも綱一郎もその会に加わりましたが、その頃伊藤さんは御自分の月給全部を寄付なされて平気で居られたそうで御座います。また伊藤さんは位人臣を極める御身分でいらせられながら、その御手軽なことは昔日と少しも御変わりが御座いませんで、会抔へ御出に成りましても、何時御出に成りましたか判らぬ程で御座いまして『アア伊藤さんが御出なされたから御挨拶申上げて来よう』と申すような次第で御座います。御見受け申したところ、御服装も極めて質素な方で、別段是ぞと眼を止めるような派手なところも御座いません。併しお年齢に似合わず大変に若く見えます。そして暖炉の前でお腰を撫でながら昔話などを為されまして御演説とても学者らしく六ヶ敷事も仰らずに淡泊としたもので御座います。殊に吾々婦人が感謝しなければ成りませんのは、吾々の為に御尽力下さって婦人の地位を与えて下さったのも全く伊藤さんで御座います。以上申し上げた次第で詮じ詰めて申上げれば、極めて平和で円満なお方で御座いました。唯欠点と申しますれば、新聞などにも度々出ましたですが、婦人を側に近付けると言うような事で御座いまして、それさえ御座いませねば誠に神とも尊ぶべき方だろうと存じます」[86]
- 三宅雄二郎 「伊藤公の陰には必ず女があった。併し伊藤公の女に対する必ずしも多淫多情の結果ではない。一寸煙草を吸って気を転ずるその煙草代りに女を取ったのである。藤公は眼中唯国家あるのみ。風俗や人情や是等は顧みるにいとわなかったのであろう。婦人の貞操に対してもどの位まで尊重して居ったか……。かかる事には余り意を留めなかったらしい。故に文部大臣が折角真面目な訓令を発しても、上に立つ人が反対の行動を取る為め滑稽に感じらるる事もないでもなかった。併し翻って考えれば、藤公が女に対して自由主義、開放主義であった為、人も自然と近づき易く、その花々しい生涯は一は之あるが為めである。もし藤公が道徳堅固の君子人であったならば、今日の如き派手な名声は得られなかったかも知れぬ」[87]
- 宮武外骨 「我輩は伊博(伊藤博文の略)を平凡の常人なりとは云はない、されど彼の死は世界の大損失ドコロか、日本の小損失にもあらずとするのである。(中略)明治十三四頃、國會願望者なる者全國に蜂起して東京に押寄せ、若し之を聴かずんば極端の暴動も起こるべき輿論の大勢に迫られ、餘義なく十年後を期して輿望を達せしむる事にしたのであって、在朝伊博の輩は、只其時代の要求に屈服したに過ぎないのである。斯かる輩を指して立憲の大元首と賞揚するが如きは、往事迫害を恐れずして自由民権の論を主張せし民間の志士を無視するの甚だしき者である。(中略)非命の死に同情を寄せて、死者を哀惜するのは人情の常であるから、我輩とても亦其事を非難しないが、其程度を過ごせし没理狂的の哀惜には寧ろ大反対である」[88]
- 一方では「伊藤公の死は日本の大損失」「明治維新の大功臣、憲法政治の大元首、古今無類の大偉人を失ひたりと嘆き」と高く評価したとも[89]。
- エルヴィン・フォン・ベルツ 「韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで起こった。その時、武断派及び東京の言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。欧州においては韓国保護について新統治の峻厳を批判する者は多い。これらの批評者は日本当局が学校を創設し、農業を改善し、鉄道を敷設し、道路を開設し、船舶や港湾を建造し、かつ日本人移民によって勤勉な農夫、熟練工たる模範を韓国民に示そうという苦心経営の事実をことごとく無視する者である。私は三度現地に赴き、実際の状況を目撃して感服した。(略) 東京で公より話を聞いた時も、公が韓国とその人民の幸福を推進するためにいかに尊敬すべき企画を持ち、いかに多大な功績をあげたかを明白に推知しえた」[90]
- フランシス・ブリンクリー 「公を西洋の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろグラッドストンに類するところである。財政の知識の豊富なところはピールに比するところであり、策略の機敏かつ大胆なところはビーコンズフィールドに似ている。公は全ての大政治家の特徴を一身に集めている如き観がある」[91]
- アルジャーノン・ミットフォード 「精悍で野性的、隼のようであり、冒険好き、無類に陽気な青年であった。しかし、いざ仕事となると正確で機敏、天稟が高鳴りする人物だった」
注釈
- ^ 塙忠宝の子・塙忠韶は明治維新後政府から召しだされ大学少助教に任ぜられ、文部小助教、租税寮十二等出仕、修史局御用掛へと一旧幕臣でありながらと異例の出世を経験した。これについて小説家の司馬遼太郎は、伊藤が後年自責の念から忠宝を礼遇したのではないかと推測している[10]。
- ^ 引用内は西洋歴(新暦)。
- ^ 伊藤はロシアと戦うことに対しては終始慎重な態度をとり続け、「恐露病」と揶揄されることさえあった。伊藤が自らロシア入りして日露提携の道を探ったことが、逆にロシアとのあいだでグレート・ゲームを繰り広げていたイギリスを刺激する結果となり、日英同盟締結へとつながったことはよく知られている。[25]
- ^ 金子が「そのような重大な使命は果たせない」と固辞すると、伊藤は「ロシアが九州海岸へ来襲すれば自分も武器をとって戦う覚悟だ」と説き、金子はその気迫に感銘を受けて渡米を決意したといわれる。[26]
- ^ 韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ。
- ^ 広義の日本統治時代として韓国併合時代の35年と保護国時代の5年をひとつながりでとらえることもある。
- ^ 私的蓄財はほとんどないとされていた伊藤だが、実は公債だけで14万円(2009年換算で約28億円)も溜め込んでいたことが明らかになっている[47]。
- ^ 1876年発布のオスマン帝国憲法(ミドハト憲法)は大日本帝国憲法より13年早いが、2年後の1878年から1908年まで停止されており、また現在のトルコ共和国政府はトルコをヨーロッパの一国とみなしている。
- ^ 後述の「嗚呼醜臣軟猿乃図」では皇族である有栖川宮大将の像でさえ、楠木正成の像がある宮城前には立てなかったという主張がある。
- ^ なお、この事件の起こる2日前に東京でも日露戦争講和条約の内容に不満を持った人たちによる日比谷焼き討ち事件が起きている。神戸の場合主に被害に遭ったのは前述の銅像関係と有馬筋・西門筋・福原口の3か所の派出所。
- ^ 前述の破損状況は『神戸新聞』1905年9月9日付けの説明なのだが、1909年12月6日付の同紙では前回と異なり「顔には別段異常はなく、後頭部は摩擦痕はあるが台座を高めにすれば目立たない、服のボタンやポケット付近に目立つ損傷があるがすぐに直せる範囲。」としている。
- ^ 所有地寄付の申し出があったため
- ^ なお、引きずり回しにされた方の銅像は知人の服部一三がしばらく庭に置き、彼の死後の1930年に山口県萩市の伊藤旧宅隣に寄付されるが戦争中の金属供出に出され現存しない。
- ^ 明治42年(1909年)松山での講演会での発言。
- ^ 『海南新聞』1909年(明治42年)3月18日号の記事によると、同年3月16日松山道後を訪れた伊藤博文は、歓迎会演説の中で自らの出自に就いて 「予ノ祖先ハ當國ヨリ出デタル者ニテ、伊予ニハ予ト同シク河野氏ノ末流多シト存スルガ、予ノ祖先ハ300年以前ニ於テ敗戰ノ結果、河野一族ノ滅亡ト共ニ中國ヘ移リタル者テ「通起(みちおき)」ト称シ慶長16年(1609年)5月26日ニ死歿シタルガ故ニ、明年ニテ恰モ300年ニ相当ス。彼ハ「林淡路守通起」ト称シ、予ハ其レヨリ第11代目ニ當レリ。「通起」ハ敗戰ノ後、毛利氏ヲ頼リタルモ、毛利氏モ當敗軍ニ属シ、頗ル艱難ヲ極メタル時ナルカ故ニ、遂ニ村落ニ埋歿シ落魄シテ、眞ニ僻遠ナルカ寒村ニ居住シ、其裔孫此処ニ存続シテ、今ヤ一族60餘軒ヲ算スルニ至レリ。予モ即チ其一人ニシテ、明年ヲ以テ齢70ニ達スルガ故ニ、恰モ周防ニ移リタル通起ノ歿後230年ニ出生シタルモノナリ。予カ父母ニ擁セラレテ萩ノ城下ニ出デタルハ僅ニ8歳ノ時ニシテ、爾来幾多ノ変遷ヲ経テ、今日ニ及ベリ。近來家系ノ事ニツイテ當國ノ諸君ガ頗ル調査ニ盡力セラレタル結果、周防移住以前ノ事蹟、大ニ明確ト成リタレハ、明年ハ周防ニオイテ親族ヲ参集シ、通起ノ為ニ300回忌ノ法要ヲ營ム心算ナリ。今次當地ニ於テハ、諸君ガ頗ル厚意ヲ以テ來遊ヲ歓迎セラレタルハ、右ノ縁故ニ基クモノトシテ、予ハ殊更ニ諸君ニ対シテ感謝ノ意ヲ表スル次第ナリ。顧フニ古來成敗ノ蹟ニ就テ考フレハ、予ガ祖先ハ當國ヨリ出デタルモノナレバ、當國ハ即チ祖先ノ故郷ナリ。今ヤ祖先ノ故郷ヘ歸リ來リテ斯クノ如ク熱誠ナル諸君ノ歓迎ヲ受ク。胸中萬感ヲ惹カザルヲ得ズ。加之、本日ハ諸君ガ我過失ヲ論ゼズシテ、唯々微功ヲ録セラレタルニ至テハ、深ク諸君ノ厚意ヲ心ニ銘シテ忘却セズ」と発言している。
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