九州王朝説 脚注

九州王朝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/06 08:22 UTC 版)

脚注

注釈

  1. ^ a b 『邪馬台国論争』(佐伯有清、岩波書店2006年平成18年))には掲載されていない。
  2. ^ 古田は自ら『学士会報』No857 2006-II所収「九州王朝の史料批判」において「これに対する学会の応答欠乏し」と述べている。
  3. ^ 「九州王朝の二都制」「唐軍の北九州進駐」などは、執筆者の判断によって省略した。古田による邪馬台国説を改良、「壬申の乱九州内説」を採用、「大化の改新」の解釈を加え、九州倭国の滅亡・ヤマト王権の成立を文武天皇5年(701年)ではなく持統天皇9年(695年)とした(「乙巳の変」による政権簒奪時を政権交代時とした)。神武東征の時期を5世紀6世紀とし、欠史八代の時期を古墳時代後期飛鳥時代とした。#問題点で批判のあるような『通典』の解釈・古田による『魏志倭人伝』邪馬台国への所要日数(水行十日陸行一月)についての解釈なども省略した。そのほかにも古田武彦と違う面がある。
  4. ^ 「委」は、上古音(周・秦・漢の音)では「uar、わ」。中古音(隋・唐音)では「ui、ゐ」(両唇音のwはなかった)。「法華義疏」に「大委国上宮王私集非海彼本」とある。倭を委としており、上古音で委の発音は倭(わ)と同じであった証拠の一つである。万葉仮名では「委」は「わ、ゐ」。藤原京出土の木簡に、「伊委之」( = 鰯、いわし)。藤堂明保著『漢字語源辞典』(学燈社1965年昭和40年)、ISBN 4312000018)によると、魏代の「倭(委)」は「( I ) uar 」という読みである。
  5. ^ 魏志倭人伝」に見える3世紀の「邪馬壹国」(邪馬台国)を記録どおり「邪馬壹国」とする(邪馬壹国説)。古田は、魏志倭人伝など古い記録は、邪馬壹国であり邪馬臺国の表記は誤り、邪馬壹国(やまいちこく)であるとしているが、後漢書倭伝に「邪摩惟(やまたい)」、隋書伝に「邪靡堆(やまたい)」等とあることから、南朝滅亡後の倭(ゐ) → 大倭・(たゐ)への変化に伴い邪馬壹国 → 邪馬臺国になったと考えられる。
  6. ^ a b 古田は「磐井の乱」を畿内ヤマトの九州倭国に対する反乱とみていたが、最近は無かったと見ている。
  7. ^ 「姓は阿毎(アメ・アマ「天」)、字は多利思北(または比)孤(タリシホコ、「足彦」タラシヒコ)、阿輩鶏弥(オホキミ「大王・アメキミ説あり」)と号す」(「大王」の使用例 伊予国風土記逸文(「釈日本紀」)「法興六年十月歳在丙辰我法王大王与慧慈法師及葛城臣」万葉集 雑歌 柿本朝臣人麻呂「八隅知之 吾大王 高光 吾日乃皇子乃 馬並而」)
  8. ^ 筑紫地震678年):水縄断層系が起震断層とされマグニチュード6.5〜7.5だったと推定されている。
  9. ^ 「漢匈奴悪適尸逐王」の印を「漢の匈奴の悪適尸逐の王」と読み三段の国名の例が存在するとの意見もあるが、「悪適尸逐王」は匈奴の王号であり二段の国名である。また、この印は銅印である。
  10. ^ この解釈は古田の解釈とは異なる
  11. ^ 『漢書(前漢書)』地理志の「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」・「楽浪海沖に倭人が現れる。100か国余りに分かれているが、季節になると貢物を持って挨拶に来る。と云う。」から前漢の時代は100国あまりの小国分立の状態であったのが『後漢書』東夷傳では「自武帝滅朝鮮 使驛通於漢者三十許國 國皆稱王 世世傳統」「武帝が朝鮮を滅ぼして以来、30国ていどが漢と交流している。(それらの)国は全て代々王を称することを伝統としている。」となり国の数が30国あまりに減り統一が進むと共に、一時的に自称王が乱立していたことが察せられる。倭奴国は自己の申告により漢の皇帝から家臣としての王に任命されたもので倭国内の統治の実態は不明だが、王を自称していた他の30あまりの国にから異議が無いところから建武中元二年までに倭国内の他の国々の自称王を降し、初めて倭国を統一した者である可能性があると仮定する。この後「桓 靈間 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」・「桓帝と霊帝の間、倭国が内戦状態になり、互いに攻め合い。長い間、君主が居なかった。」となり再び統一が乱れたことが察せられる。
  12. ^ 後漢書に「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」「建武中元2年に倭奴國が朝貢してきた。使いの者は大夫と自称した。倭奴國は倭國の最南端である。光武帝は印章を授けた。安帝永初元年に倭國王の'帥升等が奴隷160人を献上して謁見を願ってきた。」とある。倭国が倭奴国と区別されており、倭奴国について「倭國之極南界也」とあることから倭奴国は倭国の一部であると考えられる。王については倭国の王、帥升(等)しか記されず倭奴国の王については記されていないことから、建武中元二年に「倭國之極南界」に在った倭奴国が使いを遣し漢より印を綬かって倭国全体の王に任ぜられ、倭国王になったと考えられる。
  13. ^ 「ゐ」は隋唐音であり、「倭」「委」はともに「わ」であるとする反論もある。
  14. ^ 「倭奴」は日本の蔑称であり、しかも金印には「倭」の字が減筆されニンベンの無い「委」が用いられている(王莽匈奴に与えた「新匈奴單于章」の金印と同じ「漢の皇帝が属国の蛮王に与えた印」という侮辱的印と同じ)。
  15. ^ 倭(日本)による朝鮮半島への進出は、366年に百済と同盟してから663年の白村江での唐・新羅との戦いを経て668年の高句麗の滅亡までの303年間で、倭(日本) が政治・軍事・外交面で朝鮮半島に関わった年次は81回にも及ぶ。これは4年に1回の割合でほとんど300年の間、連続的に起こっており、また倭(日本)は万余の大軍を朝鮮半島に送り続けたことが記録されている(三韓征伐#概史・年表)。九州王朝説でも九州では軍事が民生を圧迫していたと考えるが、九州の勢力は独自に軍事活動を行っていたと仮定する。
  16. ^ (1)出現期の前方後円墳の分布の中心は近畿の大和(2)出現期の前方後円墳の分布は瀬戸内海沿岸各地から北部九州。(3)九州南部では東西に地下式横穴墓地下式板石積石室墓という二大分布圏が存在。前方後円墳は沿岸部のみに分布する。(4)古墳時代前期後半に東日本、近畿、西日本各地で前方後方墳から前方後円墳への転換が確認されている。(5)3世紀中葉すぎ、近畿中国地方 → 北部九州への土器の移動が顕著に認められる。逆の動きはほとんど認められない。(参考 → 「前方後円墳と前方後方墳」 白石太一郎講演 [リンク切れ]))等を根拠であるとする反論。
  17. ^ 現在でも、九州の北西部に広がる海域を玄界灘と言う。「玄」は「玄武」と同様に「北」の意味であり、玄界灘とは(荒い)北の海を意味する。なお、日本書紀にも2か所「北海」の表記はあるが、これは九州倭国の史書からの盗用であると考えられることとする。
  18. ^ 根拠はないが、倭王武が九州倭国の王であるとすると、古事記や日本書紀が伝えるところの「ニニギノミコト」・「ヒコホホデミノミコト(山幸彦)」・「ウガヤフキアエズノミコト」は九州倭国の人間で、そこから東征に派遣された「カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)」の子孫が巨大古墳を築造した畿内日本であることになる。多元王朝説(古田武彦)は神武東征は単なる神話ではなく史実の反映であり、神武が畿内に入植したのは2世紀の頃ではないかと推定している。九州倭国は半島等での軍事活動で疲弊し高句麗のような強力な競争相手のいない新天地に入植した神武の子孫畿内日本はその後も東征を続け発展に向かい、近畿地方から東日本にかけて大勢力を築いたとする。
  19. ^ 戦国時代でも朝鮮出兵に際して豊臣秀吉は、肥前名護屋城を築城しそこから指揮を執っている。明治になっても日清戦争に際して日本政府は、大本営と首都機能を広島市に移して戦っている。
  20. ^ 第1回遣隋使派遣は『日本書紀』に記載がなく『隋書』にあるのみ、また『日本書紀』では遣隋使のことが「遣唐使」となっている。
  21. ^ 『隋書』にある600年の第一回遣隋使は『日本書紀』に全く記載がなく、第二回の607年の遣隋使も隋ではなく大唐国に派遣したと記している。唐は618年に建国しており607年は隋代である。極めて可能性は低いが、「『唐土』としての『大唐』ではなく、王朝としての『唐』に行った」とすると618年以後のことと仮定することはできる。『日本書紀』の記す第二回遣隋使は実は唐代の619年であり、『日本書紀』では年代を12年繰り上げた為に隋代を大唐国と書いてしまったのではないかと仮定する。そうすると、607年の遣隋使は九州倭国の派遣したもので、隋の従八品文林郎の裴世清国に来たのであり、619年にも唐の家臣となり降格した後の正九品鴻臚寺の掌客の裴世清が小野妹子と供に来たと考えれば無理矢理ではあるが辻褄が合う。約12年の誤差
  22. ^ 古田武彦は、九州年号の存在をもって磐井の乱は史実でないとしているが、磐井の乱を九州内の反乱・王朝交代と考えれば、否定の根拠にはならない。
  23. ^ 以下のように日本書紀と朝鮮側記録等の間には3年のずれがあるので、528年と記録のある「磐井の敗死」も3年ずらして、531年の「日本天皇・皇太子の同時死亡」のこととするのが妥当であるということにする。
    • 継体18年(524年)百済の太子明、即位(逸書「百済本記」) ⇒ 527年百済聖明王即位(遺事百済王暦)
    • 継体22年(528年)磐井滅亡(日本書紀本文) ⇒ 531年日本天皇太子皇子の死(三国史記「百済本紀」)
    • 継体23年(529年加羅金官国滅亡(日本書紀本文) ⇒ 532年(三国史記)
    • 継体25年(531年)継体の死(日本書紀本文(継体紀)) ⇒ 534年継体の死・安閑即位(日本書紀或本(安閑紀))
  24. ^ (1)物部日良仁光連、(2)日往子明連、(3)日男玉頼連、(4)神力玉依連、(5)日光玉一連、(6)日往玉尊連、 1.日明玉連尚、2.舎男連常、3.日柱男連廣、4.大直連俊、5.大全神連親、6.日天男連信、7.大長津連秀、8.大勝津連平、9.神仲熊連豊、10.神天子連家、11.神道天連良、12.神司宮連法、13.神天仲連就、14.神頭国連軌、15.神斗玉連仍、16.神面土連篤、17.賢名皇連忠、18.意賢皇是連、19.賢天皇兼連、20.公兼皇連岩
  25. ^ 九州年号に「聖徳」(629年)とあることを聖徳太子と結びつけ、伝説の聖徳太子は九州倭国の王の一人であった(聖徳太子の太子は本来は、仏教に深く帰依した大師である)とする仮説もある。しかし、古田武彦はこの仮説をとらない
  26. ^ 「有阿蘇山 其石無故火起接天者 俗以為異 因行祭 有如意寶珠 其色青 大如卵 夜則有光 云魚眼精也」「阿蘇山がある。その石は訳も無く火が起り天に接するもの。習慣が異なり、よって祈祭をおこなう。如意宝珠あり、その色青く大きい卵のようだ。夜はすなわち光あり、魚の眼精だという」
  27. ^ 毎字多利思北孤(アメ又はアマ・タラシホ(ヒ)コ)は『古事記』、『日本書紀』に見られる呼称と一致し、大王・天君は首長以外にも用いられた尊称であるとして、『隋書』の「王姓阿毎字多利思北孤」を厩戸王子を指すとする説もあるが厩戸王子は天皇ではない。新唐書では多利思北孤は用明天皇のことである。
  28. ^ 名古屋市博物館の常設展示の藤原宮出土木簡には「庚子年(700年)四月/若狭国小丹生/木ツ里秦人申二斗」・「尾治国知多/大宝二年(702年)」などの記載がある 奈良文化財研究所 木簡データベース
  29. ^ 書記には天武天皇には何度も葬儀記事がるが、孝徳天皇には一度も葬儀の記事が無いのはこの記事の入れ替えによると考えられる。また天皇が逝去したので九州年号白雉元年(652年)へ改元したと考えられる。
  30. ^ a b 古田は、九州倭国の滅亡・ヤマト王権の成立を文武天皇5年(701年)としたため九州倭国が7世紀末に日本の国号を使い始め、ヤマト王権が政権簒奪後も日本の国号を使い続けたとしている。
  31. ^ 百済への仏教伝来は枕流王元年(384年)と記録されている。一方、日本への仏教公伝6世紀半ば頃とされ欽明天皇代に百済の聖王によって伝えられたとされる。 しかし倭国と百済は親密な関係にあり、倭国への伝来が百済より200年も後とは考えられない。九州倭国への仏教伝来は4世紀末から5世紀初頭の頃であり、6世紀半ばの伝来は畿内日本への仏教伝来のことである。ただし、公的ではない仏教徒は仏教公伝以前にも司馬達等などがいるので以上は根拠にはならない。
  32. ^ 藤原広嗣の乱の時も鎮圧に当った大野東人は戦いの前に宇佐神宮で勝利を祈願している。
  33. ^ 7世紀中頃は白村江戦の直前であり、博多湾岸のような敵の侵入を受けやすい所に九州王朝が宮殿を造営するとは考えられないにも拘わらず古田武彦は、博多湾岸にある類似地名(名柄川、豊浜)の存在を根拠に、「難波長柄豊碕宮」を福岡市西区の愛宕神社に比定し、『皇太神宮儀式帳』を根拠にここで九州王朝は評制を樹立したとしている。『古代に真実を求めて』12集(明石書店2009年(平成21年))『なかった』五号(ミネルヴァ書房2008年(平成20年)6月)
  34. ^ 通説では「弥生時代、上町台地の北に長柄砂州が続き、河内湖の水は、2021年令和3年)現在の新大阪駅の北にあった水路から大阪湾に流れていたが、古墳時代になると淀川上流から運ばれてくる土砂でこの水路が埋まり、出口を失った河内湖の水が溢れ出し洪水が多発、このために上町台地の北端、現在の大阪城の北に堀江を掘削し、溢れた水を大阪湾に流れるようにした。この堀江が後に淀川本流となり、明治の淀川改修以降、現在の大川となった。」としている。
  35. ^ 唐代には科挙に合格し唐の高官となった阿倍仲麻呂のように、遣唐使として多くの日本人が唐に渡っており、また白村江の戦でも多くの日本人が捕虜として唐に連行されている。これらのことからも、唐代には日本についての情報は豊富であり、旧唐書新唐書の日本についての情報には事実を反映したものがあると考えられる。旧唐書や新唐書で日本國と倭國が別の國であるように記述されているのは、当時の日本が、漢や魏、南朝に臣従していた過去を否定するために、かつて册封をうけ臣従していた倭國と日本國は別であるとしたものとする解釈がある。
  36. ^ 続けて「長安三年、其大臣朝臣真人來貢方物(長安3年(703年)、その国の大臣の朝臣真人が朝貢して来た)」とあることから、九州倭国から畿内日本への政権交代を唐に伝え、唐に日本を承認させたのはこの朝臣真人だと考えられる。
  37. ^ 内倉武久著『太宰府は日本の首都だった』ミネルヴァ書房 (2000年(平成12年)7月)
  38. ^ 倭王武の上表文に「竊自假開府義同三司 其餘咸假授 以勸忠節」・「ひそかに、みずから開府義同三司を仮に与え、その余はみな仮に授けて、もって忠節を勧める」とあり、宋代には三司が(三公も含めて)最高クラスの官位になっていることから
  39. ^ 大槻文彦『大言海』「(一)京都ヨリ遠ク隔リテ、朝政ヲ行フ所。筑紫ノ太宰府、陸奥ノ鎮守府、諸国ノ國衙ナドナリ。コレヲ、ひなのみやこ(都)トモ云フ。(二)専ラ、太宰府ノ稱。(三)又、三韓ヲモ稱ス。」『日本国語大辞典』「(1)都から遠く離れた地にある官府。陸奥の鎮守府や諸国の国衙(こくが)などがこれにあたる。(2)特に、太宰府のこと。(3)新羅(しらぎ)に置かれた官家」
  40. ^ 柿本朝臣人麻呂筑紫国時海路作歌「大王之 遠乃朝庭跡 蟻通 嶋門乎見者 神代之所念(細い水路を蟻が通り抜けるようにして大王の昔の首都(太宰府)に通う時、門のように並んだ二つの島(志賀島、能古島)を見ると、いよいよ繁栄していた神代の時代のことがしのばれる)」
  41. ^ 吉田東伍大日本地名辞書』、『筑前国続風土記』によると、紫宸殿内裏の名称は安徳天皇に由来するとされるが、『平家物語』・『源平盛衰記』などの記録では庁舎が戦火で消失していたため平家は大宰府政庁に宮を置いていないので、これは地名の由来を説明するための後代の創作であると考えられる。
  42. ^ 神道発祥の地は壱岐市の月読神社壱岐国)といわれており、日本最古の住吉神社は壱岐市にある住吉神社や、福岡市の住吉神社である。また八幡様の総本宮は宇佐神宮であり、宇佐神宮の本宮は福岡県飯塚市大分八幡宮である。
  43. ^ 「井」一族は神武天皇とも関わりのある古い時代からの姓で、有力豪族だったという。また本姓は「井」だが「井野(イの)」等の苗字を名乗っている家も多い。
  44. ^ 安本美典 『古代九州王朝はなかった』(新人物往来社)には、井上光貞が九州王朝説を「空中楼閣」と評したとしている。東アジアの視点で、日本の歴史を学ぶ (PDF) [リンク切れ]ヤマト王権は鉄を使って勢力を広げたって本当? (PDF, 206 KB) (日本語)
  45. ^ 日本古代史考古学界では年輪年代学の成果から3世紀中葉に畿内を中心とする連合が形成されたとする見解が主流となりつつある(参照白石太一郎 『古墳とヤマト政権』 文藝春秋1999年(平成11年) ISBN 4166600362)。
  46. ^ 一例を挙げると、同時代史書と後代史書が矛盾する場合は、同時代史書を優先、自国史書より利害関係のない外国史書を優先という方法により立論していながら自説と矛盾する『通典』を無視していると思われる発言を支持者がしている。(出典:古田史学の会 横田幸男の発言 に「最後に当会は、屁理屈も理屈であると言われる日野陽仁(川村明)氏の九州王朝説批判を批判することはありません。これは、当会の考えとして元の史料である『通典』・『唐会要』・『太平御覧』の史料批判から出発すべきだと考えるからです。それらの史料性格については、大昔に古田氏が『邪馬臺国の常識』(松本清張編 毎日新聞社)で論じているところであり、新しい知見や再解釈が行なわれば公開させていただきます。そんなことは当面ありそうにないです。」とあり、『通典』とそれを根拠にした批判を無視していくことを公言している。なお、別の九州王朝説論者による批判は存在する。)。
  47. ^ 山尾幸久 『新版 魏志倭人伝』 講談社1986年(昭和61年) ISBN 406148835X P62、P255 - 参照。張明澄「誤読だらけの邪馬台国 中国人が記紀と倭人伝を読めば」久保書店1992年(平成4年) は「古田説はただの帳尻合わせ」とする。謝銘仁 『邪馬台国 中国人はこう読む』 立風書房1983年(昭和58年)は「水行十日・陸行一月」を帯方郡からのトータルの所要日数とする古田説について、極端な漢文の読み方であり問題にならないとする。『歴史と旅』秋田書店、1984「東アジアからみた邪馬台国」「魏志倭人伝の読み方、日本人のここが間違っている 謝銘仁vs張明澄 司会安本美典」は「水行十日陸行一月」について「帯方郡から邪馬台国まで、すなわち全行程(たとえば古田説)に要した距離ではない。漢文上そういう読み方は無理。その場合は「自帯方郡・・・至邪馬台国…」のようになる。」とする。
  48. ^ 「私は九州王朝一元史観ではないわけでありまして、多元史観なわけですね。私のいっているのは、多元史観が大事であると、多元史観というのは今おっしゃいました出雲であるとか、吉備であるとか、日向であるとか、そういったところの、それぞれの歴史を大事にしていくということでありまして、その一つを原点にして、全部を説明していく、というやり方をしないということなんです。だから近畿天皇家一元主義にかわる九州王朝一元主義をとるというんじゃないんですね。」大嘗祭と九州王朝の系図 [リンク切れ]

出典

  1. ^ 古賀達也 新春講演会の挨拶
  2. ^ 「磐井の乱」はなかった
  3. ^ いき一郎『扶桑国は関西にあった』
  4. ^ 古田武彦 大化改新批判
  5. ^ 古田武彦 「法華義疏」の史料批判
  6. ^ 鈴木靖民『倭国と東アジア〈日本の時代史2〉』(吉川弘文館、2002年7月1日)113頁。ISBN 9784642008020
  7. ^ 古田武彦『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1993年1月)ISBN 4022607505 p330
  8. ^
    • 「旧唐書倭国伝」倭国は、古(いにしえ)の倭奴国である。
    • 「新唐書日本伝」日本は、古(いにしえ)の倭奴国である。
    • 「宋史日本国伝」日本国は、もとは倭奴国であった。
    • 「元史日本伝」 日本国は東海の東に位置し、昔は倭奴国と称した。
    • 「明史日本伝」 日本は、古(いにしえ)の倭奴国である。
  9. ^ チョッパリ#チョッパリ以外の日本人への蔑称
  10. ^ 丹生川上神社#歴史
  11. ^ 銅釧鋳型(どうくしろ いがた) 福岡市多田羅大牟田遺跡、e国宝
  12. ^ [1]
  13. ^ 『岩戸山歴史資料館 展示図録』p. 16
  14. ^ 大矢野栄次『壬申の乱の舞台を歩く 九州王朝説』(2012年12月25日) ISBN 978-4870354760
  15. ^ 古田史学会報 81号 伊倉2 天子宮は誰を祀るか 古川清久
  16. ^ 斎藤忠『倭国と日本古代史の謎 』(学研M文庫、 2006年6月1日) ISBN 978-4059011842
  17. ^ 『日本書紀』天智天皇6年(667年)条に「筑紫都督府」とある。
  18. ^ 一大率』 - コトバンク
  19. ^ 古代のお金 - 福岡市博物館
  20. ^ 『古代史の十字路 万葉批判』(東洋書林)2001年(平成13年)4月20日
  21. ^ 古田史学論集 第十一集「古代に真実を求めて」古田史学の会(編) 明石書店 2008年(平成20年)3月 ISBN 978-4-7503-2762-4 『日本書紀』・「持統紀」の真実——書紀記事の「三十四年遡上」現象と九州年号——(正木裕) この歌は大和吉野の歌ではない
  22. ^ 『天孫降臨地の解明』古田武彦
  23. ^ 米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、2007年2月)ISBN 4787706039
  24. ^ 古田 武彦 著『盗まれた神話』
  25. ^ 延喜式内の広島(安芸国)の松崎八幡宮(多家神社)とは別の宮である。
  26. ^ 『奪われた国歌「君が代」』(株式会社情報センター出版局)2008年(平成20年)8月11日 『日本の秘密 「君が代」を深く考える』(五月書房)2000年(平成12年)1月28日
  27. ^ 古田武彦氏講演会(四月十七日) 抄録
  28. ^ 伊藤まさこ著「太宰府・宝満・沖ノ島」(不知火書房、2014年(平成26年)8月)
  29. ^ 古田武彦著『ここに古代王朝ありき』(ミネルヴァ書房2010年(平成22年)9月)
  30. ^ 米田良三著『続・法隆寺は移築された「源氏物語」は筑紫が舞台だ』
  31. ^ 『和姓に井真成を奪回せよ』(同時代社(2005年(平成17年)7月))ISBN 4886835562
  32. ^ 古賀達也の洛中洛外日記第520話 2013年(平成25年)2月2日
  33. ^ 『古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?』
  34. ^ 聖徳太子研究者の石井公成自身の「聖徳太子をめぐる珍説奇説」の一連ブログ記事において聖徳太子関連についてトンデモが多いと批判している







固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「九州王朝説」の関連用語

九州王朝説のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



九州王朝説のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの九州王朝説 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS