自然哲学
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自然哲学(しぜんてつがく、羅:philosophia naturalis)とは、自然の事象や生起についての体系的理解および理論的考察の総称であり、自然を総合的・統一的に解釈し説明しようとする形而上学である[2]。自然学(羅:physica)と呼ばれた[2]。自然、すなわちありとあらゆるものごとのnature(本性、自然 英・仏: nature、独: Natur)[3]に関する哲学である。しかし同時に人間の本性の分析を含むこともあり、神学、形而上学、心理学、道徳哲学をも含む[4]。自然哲学の一面として、自然魔術(羅:magia naturalis)[注 1]がある。自然哲学は、学問の各分野の間においても宇宙の様々な局面の間でも、事物が相互に結ばれているという感覚を特徴とする[1]。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g ローレンス・M・プリンチペ 著 『科学革命』 菅谷暁・山田俊弘 訳、丸善出版、2014年
- ^ a b 「自然哲学 physica; philosophia naturalis」『ブリタニカ国際大百科事典」
- ^ Droz, Layna; Chen, Hsun-Mei; Chu, Hung-Tao; Fajrini, Rika; Imbong, Jerry; Jannel, Romaric; Komatsubara, Orika; Lagasca-Hiloma, Concordia Marie A. et al. (2022-05-31). “Exploring the diversity of conceptualizations of nature in East and South-East Asia” (英語). Humanities and Social Sciences Communications 9 (1): 1–12. doi:10.1057/s41599-022-01186-5. ISSN 2662-9992 .
- ^ 岩波『哲学・思想 辞典』
- ^ 八杉竜一、『進化学序論』、(1965)、岩波書店、p.29
自然学
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エピクロス派は唯物論をとると言われるがこれは正確ではない、というのはエピクロス派は物体のみならず「空虚」もまた「存在」すると考えているからである。ただし、物体は相互作用を及ぼしあうことができるのに対し空虚はそうでない(「相互に作用を及ぼしあう」というのは、元来はプラトンが『ソフィスト』で存在の定義として用いたものである)と規定した。この規定に基づいてエピクロスは、今日私たちが物体であると考えるものだけではなく魂も物体であると主張した。また、虚空の中に物体が散在するという世界観に合致するものとしてデモクリトス以来の原子論がエピクロス派に採用され、(もちろん心を含む)物体は原子からなると考えられた。ただし、エピクロスの時代のデモクリトス主義者は懐疑主義的傾向を示していたため、エピクロスは自身の哲学と矛盾しないよう原子論を再構築した。後にカール・マルクスが学位請求論文で取り扱った「原子の逸れ(パレンクリシス/クリナーメン)」もそうした試みの一つである。魂は諸原子から構成されたものであり、魂は身体と結びついている限りで存在し、身体が魂と結びついてる限りで感覚は生じるのであって、死んで魂と体が分離すると魂も感覚も存在しなくなるとエピクロスは考えた。 ストア派は空虚が存在するとは考えなかったがエピクロス派と同じく相互に作用を及ぼしあうことを物体の定義とし、魂や徳、神をも物体であると考えた。さらに、『ティマイオス』や『法律』第十巻に記されている、神が世界を司っているという考えもプラトンから継承した。しかし、ストア派ではプラトン主義と違い神も物質であり、感覚的世界を超越する存在は否定された。ストア派は物体と存在の外延は等しいと考えたが、空虚、場所、時間、レクトンの四つの物も「何か(ティ)」として「成立する(ヒュピスタスタイ)」ことを認めているからである。このレクトンとは直訳すると「言表されうるもの」となり、例えば「メスによって肉が切られる」という文で「切られること」という術語内容はレクトンの一種とされる。ところで、ストア派における「ロゴス=神」はあらゆる事物の原因であることから「自然」と呼ばれ、世界を最善な状態にするべく配慮している点から「摂理」と呼ばれ、ロゴスの定めからあらゆることが生じることから「運命」と呼ばれる。ストア派ではこの運命と後世で言うところの自由意志との両立が模索され、「人間の意志は万物から完全には自由ではない。逆に完全に自由だと論じるものは、自分が世界の部分であり人々や環境に囲まれて生きていることを失念している」といった考えに至ったとされる。 懐疑主義的であったアカデメイア派はストア派やエピクロス派の自然学に対する批判に終始し、自前の自然哲学を構築することはなかった。しかし、アカデメイア派がストア派の物質的な神を批判したことを踏み台として、後の時代のプラトン学派では人間とは全く違う存在としての神が論じられた。プラトン学派に属するユダヤ教徒のアレクサンドリアのフィロンはこの流れに属する。心についてもストア派やエピクロス派とは異なって物質とは全く違う心が主張された。プロティノスやヒッポのアウグスティヌスにそうした心概念が見いだせる。
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自然学
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『真空について』という短い論文を書き、虚空の存在の性質について考察した。彼はまた真空の存在に関して、水中での吸引機を使った最初の実験を行ったと目されている。彼の結論は、空気は利用可能な空間を埋めるために拡張できるということであり、完全な真空は不合理だということだった。
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自然学(第二哲学)
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「アリストテレス」の記事における「自然学(第二哲学)」の解説
「形相」および「質料」も参照 アリストテレスによる自然学に関する論述は、物理学、天文学、気象学、動物学、植物学等多岐にわたる。 プラトンは「イデア」こそが真の実在であるとした(実在形相説)が、アリストテレスは、可感的かつ形相が質料と不可分に結合した「個物」こそが基本的実在(第一実体)であり、それらに適応される「類の概念」を第二実体とした(個物形相説)。さまざまな物体の特性を決定づけているのは、「温」と「冷」、「乾」と「湿」の対立する性質の組み合わせであり、これらの基礎には火・空気・水・土の四大元素が想定されている。これはエンペドクレスの4元素論を基礎としているが、より現実事象、感覚知見に根ざしたものとなっている。 アリストテレスの宇宙論は、同心円による諸球状の階層的重なりの無限大的な天球構造をしたものとして論じている。世界の中心に地球があり、その外側に月、水星、金星、太陽、その他の惑星らの運行域にそれぞれ割り当てられた各層天球があるとした構成を呈示する。これらの天球層は、前述の4元素とは異なる完全元素である第5元素「アイテール」(エーテル)に帰属する元素から成るとする。そして「その天球アイテール」中に存在するがゆえに、太陽を含めたそれらの諸天体(諸惑星)は、それぞれの天球内上を永遠に円運動しているとした。加えてそれらの天外層の上には、さらに無数の星々、いわゆる諸々の恒星が張り付いている別の天球があり、他の諸天球に被いかぶさるかたちで周回転運動をしている。さらにまた、その最上位なる天外層上には「不動の動者」である世界全体に関わる「第一動者」が存在し、すべての運動の究極の原因(者)がまさにそれであるとする。(これは総じて、アリストテレスの天界宇宙論ともなるが、あとに続く『形而上学』(自然学の後の書)においては、その「第一動者」を 彼は、「神」とも呼んでいる。) アリストテレスの自然学研究の中で最も顕著な成果を上げているのは生物学、特に動物学の研究である。生物学では、自然発生説をとっている。その研究の特徴は系統的かつ網羅的な経験事実の収集である。数百種にわたる生物を詳細に観察し、かなり多くの種の解剖にも着手している。特に、海洋に生息する生物の記述は詳細なものである。また、鶏の受精卵に穴を空け、発生の過程を詳しく観察している。一切の生物はプシュケー(希: ψυχη、和訳では霊魂とする)を有しており、これを以て無生物と区別されるとした。この場合のプシュケーは生物の形相であり(『ペリ・プシュケース』第2巻第1章)、栄養摂取能力、感覚能力、運動能力、思考能力によって規定される(『ペリ・プシュケース』第2巻第2章)。また、感覚と運動能力をもつ生物を動物、もたない生物を植物に二分する生物の分類法を提示している(ただし、『動物誌』第6巻第1章では、植物と動物の中間にいるような生物の存在を示唆している)。 さらに、人間は理性(作用する理性〔ヌース・ポイエーティコン〕、受動理性〔ヌース・パテーティコン〕)によって現象を認識するので、他の動物とは区別される、としている。
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自然学
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自然学においては、イブン・ルシュドはアル・ビールーニーによって開発された帰納法を採用せず、むしろ今日の自然学に近い。科学史家のルツ・グラスナーの言葉によれば、彼はアリストテレスの著作の議論を通して自然について新しい論説を生み出した“釈義的”な科学者であった。彼はしばしばアリストテレスの非創造的な追従者と描かれたが、グラスナーはイブン・ルシュドが非常に独創的な自然学の理論を導入したと主張する。特に彼のアリストテレスのミニマ・ナトゥラリア理論と、フォルマ・フルエンスとしての運動についての精緻化は、西洋において取り上げられ物理学の全体的な発展にとって重要であった。また、「物質の運動状態を変化させるのに働く仕事の割合」として力の定義を提案した。これは今日の物理学における力の定義に近い定義である。
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自然学
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イブン・バーッジャは運動の適切な運動学的定義から始め、それを力として解釈する。イブン・バーッジャに従えば自由落下体を以下のように見なす。重量ある物体が動かされて落下するならば、重量ある物体であるそれと、それを下に動かす『重量』また『形相』『自然本性』があるとする。 イブン・ルシュドのアリストテレス『自然学大注解』71テキストにイブン・バーッジャの運動理論に関する議論と、イブン・バーッジャの失われた『自然学注解』7巻からの引用が含まれている。 空気や水を媒体として石が落下するという例と関連して、イブン・バーッジャは自然的運動の考えを説明するために、塵の粒子を例に挙げる。塵の粒子は空気中に浮遊し、ゆっくり自然的に落下する。落下する十分な力を持っているのにも拘わらず、塵はそれの下にある空気を移動するにはまだ不十分である。哲学者・中世学者であるアーネスト・A・ムーディは、イブン・バーッジャが『インペトゥス理論』のパラダイムの中で、少なくとも主要な思想家の一人と見なす4つの理由を提示する。 イブン・バーッジャによれば、V(速度)=P(仕事率)-M(距離) であれば M=0の時、V=P. これはアリストテレスのV=P/Mに反対する。 この「運動法則」との内的一貫性は、フィロポノス自身の例示したように『インペトゥス理論』の擁護も要求する。 イブン・バーッジャの言う『インペトゥス(推進力)』は現代の用語に置き換えれば、重力と言うことができるかもしれない。イブン・バーッジャにとって、本質的に異なる物質の質量間の関係として決定されるのではなく、霊魂のように身体を生命化する自己運動の絶対的な内在力として考えられた。 『インペトゥス理論』は、イブン・バーッジャの弟子のイブン・トゥファイルの影響を受けた、アル・ビトルジー(アルペトラギウス)によって支持された。
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