第十巻
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第百十五回から第百三十回まで。 劉曜は陳安を破り、殺す。劉曜は張茂と戦い、石虎が前趙を攻めたため、張茂の恭順を受け入れて引き返す。 東晋では王導が元帝に王敦が反乱を起こした罪を謝し、王敦は石頭城を奪うと、建康を落とし、元帝を拘束して、元帝の腹心たちを殺害する。王敦は武昌に戻り、元帝は崩御して、子の司馬紹(明帝)が即位した。 成では、李雄が寧州を攻めるが敗北する。また、仇池も攻めるが敗戦となる。李雄は病死し、兄の子・李班が即位する。 東晋では、王敦によって周札ら周氏が滅ぼされ、明帝が王敦討伐を決意し、温嶠が王敦を騙してその内情を伺う。明帝は温嶠の報告を聞いて、陶侃・蘇峻らと王敦討伐の兵を挙げ、勝利する。王敦は己の死を予言した郭璞を処刑するが、その通り、死去する。明帝は王敦の兄・王含と戦い、勝利を重ねる。鎮圧後、陶侃が荊州刺史となり、善政を布く。明帝が崩御し、子の司馬衍(成帝)が即位した。 石勒は、石虎に命じて山東の曹嶷を攻めて捕らえて処刑する。また、石生に命じて滎陽の李矩を攻める。李矩は劉曜に援軍を求め、劉岳に救援を命じる。姜発がこれを諫めるが、聴かれなかったため、劉曜の元を去る。劉岳は石生を破るが、石生を助けに来た石虎に破られる。劉曜は自ら、劉岳を助けに出陣する。石虎は劉曜を破り、劉岳を捕らえ、滎陽を奪う。李矩も敗走中に死ぬ。石勒の参謀である張賓も病死した。 劉曜は後趙を攻め、石虎に勝利し、滎陽を奪い取る。続いて、涼州では張茂の子である張駿が自立したため、子の劉胤に攻めさせ、その恭順を受け入れる。 東晋では、成帝の舅である庾亮が政治を司る。その不満から、蘇峻と祖逖の弟・祖約が反乱を起こす。蘇峻は東晋の都・建康を落とし、成帝・王導は捕らえられ、庾亮は逃亡する。蘇峻は百官を虐待し、人心を失う。温嶠・陶侃・庾亮は蘇峻討伐の兵を挙げる。蘇峻は次第に追い詰められ、戦死する。祖約は後趙に逃亡し、成帝・王導は助かり、温嶠・陶侃・庾亮たちは功績にあわせて恩賞がくだされる。
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第十巻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 14:25 UTC 版)
元亀4年(1573年)、信長の命によるケンのスッポン料理(義昭が独断で改元した元号「元亀」と掛けてあった)に激怒した足利義昭は挙兵。信長は兼ねてより岡部又右衛門指揮の下で建造させていた大型船を用いた迅速な行動で逆に義昭勢を包囲。ここに室町幕府は滅亡する。
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