野末陳平 野末陳平の概要

野末陳平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/05 20:55 UTC 版)

野末 陳平
のずえ ちんぺい
生年月日 (1932-01-02) 1932年1月2日(91歳)
出生地 日本山口県宇部市[1]
出身校 早稲田大学第一文学部東洋哲学科
前職 大正大学客員教授
所属政党無所属→)
新自由クラブ→)
税金党→)
自由民主党→)
新生党→)
新進党→)
無所属
称号 勲二等旭日重光章
配偶者 あり[2]

選挙区全国区→)
東京都選挙区
当選回数 4回
在任期間 1971年9月13日 - 1995年7月22日
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野末陳平
YouTube
チャンネル
活動期間 2022年 -
登録者数 537人
総再生回数 19,073回
チャンネル登録者数・総再生回数は
2023年12月5日時点。
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レイク浜松カントリークラブ(引佐観光開発)代表取締役会長。落語立川流顧問。駄句駄句会同人、俳号は「野ざらし」。

参議院議員(4期)、税金党党首(初代)、参議院大蔵委員長WWF常任理事、サイバー大学客員教授などを歴任した。

来歴・人物

生い立ち

父親は鉄道院役人で、各地のを設計していた[1]。母親は岡山県岡山市の出身で[1]薬剤師になるため上京し、明治薬学専門学校を卒業後、薬局で働いていたとき、見合い結婚[1]。父親が山口県立工業教師として赴任した山口県宇部市で陳平(和彦)は生まれた[1]。その後父親の転勤に伴い、一家は神奈川県横浜市千葉県千葉市に移る[1]1945年7月7日千葉空襲に遭う。母親は西武新宿線中井駅に近い上落合で長く「トキワ薬局」を経営していた[1]

学生時代

静岡県出身。東京都立西高等学校早稲田大学第一文学部東洋哲学科卒業。早稲田大学時代は道教研究者として有名な福井康順の薫陶を受け、成績優秀につき大学院進学を勧められたという。

陳平」の筆名は、末から前漢に活躍した陳平にあやかったもので、中国古文歴史思想についての著書を多数上梓しているが、福井の影響を受けて道家寄りの姿勢が目立つ(ちなみに野末も道家で、老子儒教についての著書がある)。

タレント時代

三木鶏郎が主宰する冗談工房のメンバーとして、1950年代後半からテレビラジオの構成作家として活躍。放送作家ブームと共に脚光を浴び、サングラスをトレードマークとし、同窓で同業の野坂昭如と共に「黒メガネ族」とも称された。野坂と余興の漫才コンビ「ワセダ中退・落第」を組み、新宿松竹文化演芸場の舞台に立ったこともある。

テレビ司会者俳優ラジオパーソナリティとしても活躍。若手女性タレントに対し下ネタを連呼する役どころで娯楽番組に出演することも多く、余勢を駆って1968年公開のピンク映画『恐るべき密戯』(監督:木俣堯喬)にも出演した。

また、漢詩だけでなく、姓名判断についても造詣が深かった。その中でも、放送作家時代に文化放送のアナウンサーを務めていた御法川法男に対して、「みのもんた」の芸名を考案したことは有名である[4]

政治家時代

1969年12月第32回衆議院議員総選挙に、東京6区から無所属で初出馬するも落選。

1971年6月第9回参議院議員通常選挙では戸籍上の本名の「和彦」から知名度の高いペンネームの「陳平」に改名した上で、全国区から無所属で立候補したが次々点の52位に終わり落選する。しかし7月に山本伊三郎、9月に村上孝太郎が死去したため、繰り上げ当選した(当選同期には立川談志らがいる)。

以後、連続当選4回。海江田万里を秘書として重用し、「税金関連のエキスパート」を自称した。議員時代の1975年2月25日には、当時タブー視されていた音楽番組における大手芸能事務所とテレビ局の癒着問題を追及するなどして話題を集めている[5][6]

1977年第11回参議院議員通常選挙では新自由クラブ公認で全国区から立候補し、再選。

1983年第13回参議院議員通常選挙では、選挙直前に新自由クラブを離党し、自らが代表の税金党を結党、全国区から東京都選挙区に鞍替え立候補し、トップ当選した。

1989年第15回参議院議員通常選挙でも東京都選挙区から立候補し、四選を果たす。

1990年にはそれまでの反自民の立場から一転して、税金党を解党してまでして自由民主党に移籍し、総理総裁の座を狙っていた渡辺美智雄政科研(旧中曽根派)に加入、有権者から変節と批判された。中でも上岡龍太郎は「民主主義の“み”の字も知らん愚か者」と、当時自身が司会を務めていた『EXテレビ』で野末の行動を痛烈に批判している。

その後の政界再編では新生党新進党へと移るが、最終的にはこれも離党して無所属に戻り、「政界渡り鳥」として所属政党を転々とした。

1989年第15回参議院議員通常選挙後、税金党所属議員(比例区選出)の横溝克己が在任中に死去したため、星野朋市が繰り上げ当選した。星野は新進党までは野末と行動を共にしたが、星野は野末の離党後も新進党に留まった。星野は1995年第17回参議院議員通常選挙では新進党の比例区名簿18位と当選圏外に置かれたが、最下位で再選している[7]。野末は自著『国会議員、人とお金のお作法』(講談社)で、名指しこそしていないが星野を批判しており、両者の不仲を想起させた。

既存政党からの公認・推薦を得られなかったため、1995年の任期満了をもって参議院議員を引退する。翌1996年から大正大学客員教授に招聘されたが、政界復帰の機会を窺っており、1998年第18回参議院議員通常選挙に際しては自由連合顧問に就任。翌1999年の東京都知事選挙にも一度は立候補表明したが、すぐに取り下げて舛添要一の応援に回った。

議員時代には週刊宝石などの週刊誌でコーナーを受け持っていた。

政界引退後

2002年勲二等旭日重光章受章。同年5月、落語立川流(家元:立川談志)Bコースに入門し、「立川流野末陳平」の高座名を持つ。

2003年、大正大学を定年退職。

2004年4月から2008年8月まで、TOKYO MXテレビの『談志・陳平の言いたい放だい』で談志と共演。談志の晩年には、盟友として親交を深める。談志死去が判明した翌日の2011年11月24日に放送された『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)に電話出演し、談志の死を惜しんだ。なお、野末にとってこの出演は『談志・陳平の言いたい放だい』最終回以来、久しぶりのメディア出演であった。

2000年代後半以降は神奈川県鎌倉市光明寺での「中国の名言語る」と題した講座や千代田区の「漢詩講座」、大正大学の開講講座なども不定期で担当した。

2012年春をメドに滋賀県琵琶湖畔にある老人ホームに隠居すると発言していたが[8]2013年以降は東京を中心に活動しており、元秘書で元民主党代表の海江田万里からも定期的に相談を受ける[9]。2013年4月からニコニコチャンネルニコニコ動画)の「吉村作治チャンネル」で、『陳平・作治のこれだけは言わせて!』(ほぼ毎日動画追加)に出演している。

2014年に行われた第19回東京都知事選挙では、かつて支持した舛添要一について、「陳さまは今回、マスゾエ派ではありませんが、この人の実像をよく知ってるから、支持する気にはなれなくて、政策などにも興味もってません」と評している[10]。野末は個人的には「細川派」だったが、大雪とそれに伴う道路凍結の影響で棄権したという[11](結果は舛添の当選)。同年12月施行の第47回衆議院議員総選挙で海江田が落選すると、自身のブログで「まさかの結果となって頭が真っ白で、そのせいで血圧が上がってしまいました」「昨夜もよく眠れなかったし、もう食欲もなく、自分が落選したような衝撃です」との気持ちを明らかにした[12]

2019年第25回参議院議員通常選挙東京都選挙区から無所属で立候補[13]したが落選した。落語立川流の真打・立川志らら夫妻が選挙運動を全面的にサポートした[14][15]

出演番組

テレビ番組

ラジオ番組

インターネット番組

映画


  1. ^ a b c d e f g 毒蝮三太夫「シリーズ おふくろ 第26回 参議院議員野末陳平の母 野末たつよさん」『週刊平凡』1972年6月29日号、平凡出版、62–65頁。 
  2. ^ 結婚はしているが、議員になる前に野末の女性問題が原因で家を追い出されて以来、別居している。
  3. ^ a b c d e 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、121頁。NDLJP:12276264/61 
  4. ^ “人生は夕方から楽しくなる 司会者・みのもんたさん 「弁は剣より強し」の精神 日本にモノ申したい”. 毎日新聞. (2020年3月13日). https://mainichi.jp/articles/20200313/dde/012/070/007000c 2022年12月3日閲覧。 
  5. ^ 「放送デスクメモ(′75・二月~三月)」『マスコミ市民 : ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌』第92号、日本マスコミ市民会議、1975年5月1日、55 - 56頁、NDLJP:3463753/30 
  6. ^ 第75回国会 参議院 決算委員会 第5号 昭和50年2月25日
  7. ^ 星野はさらに自由党保守党と移籍した後に引退した。
  8. ^ 野末陳平通信:木曜午前中(2011年12月29日)
  9. ^ 野末陳平通信:月曜の夜(2013年1月7日)
  10. ^ 野末陳平通信:月曜日午後(2014年1月27日)
  11. ^ 野末陳平通信:日曜日の夜(2014年2月9日)
  12. ^ 野末陳平通信:月曜日朝(2014年12月15日)
  13. ^ “87歳の野末陳平氏が参院選出馬へ 「高齢者の声反映させる」”. 産経新聞. (2019年6月28日). https://www.sankei.com/article/20190628-Q2JB3XKWABJ7DL5TX6N2A4PXKE/ 2019年6月29日閲覧。 
  14. ^ 鈴木琢磨 (2019年7月24日). “特集ワイド:参院選、87歳野末陳平さんのゆる~い戦い 届けたかった、昭和ヒトケタの声”. 毎日新聞夕刊 (東京). https://mainichi.jp/articles/20190724/dde/012/010/003000c 
  15. ^ ながさわたかひろ (2019年7月22日). “7月:第3週『愛の野末陳平』”. サンデーたかひろ. goo blog. 2021年6月1日閲覧。


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