佐藤昌介
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佐藤昌介
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生誕 | 1856年12月21日(安政3年11月24日) 岩手県花巻市 |
死没 | 1939年6月5日(82歳没) |
墓地 | 里塚霊園(札幌市) |
職業 | 北海道帝国大学初代総長、農学博士 |
配偶者 | 稲田ヤウ |
佐藤 昌介(さとう しょうすけ、1856年12月21日(安政3年11月24日) - 1939年(昭和14年)6月5日)は、日本の教育者。北海道帝国大学初代総長。日本初の農学博士のひとり。
経歴
現在の岩手県花巻市出身[1]。父は南部藩士の佐藤昌蔵[1]。1870年1月には藩校の作人館に入り漢学を学ぶ(同窓生に原敬らがいる)[1]。1871年に上京[1]。私塾や大学南校などで英学を修業[1]。また、この頃に横浜でキリスト教に接した[1]。1872年5月に一時帰郷[1]。その後、1874年3月に東京外国語学校に入学[1](英語科は同年12月27日に東京英語学校に改組、東京開成学校の「予科」と統合されて東京大学予備門となり、現東京大学[1][2])。東京英語学校在学中にウィリアム・スミス・クラークのスカウトを受け、1876年8月に札幌農学校(現・北海道大学)に第1期生として進学してその教え子となる[1]。大学在学中の1877年9月には函館メソジスト教会宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けた[1]。
1880年7月に札幌農学校を卒業(農学士学位)[1]。開拓使に就職した[1]。
1882年7月に職を辞し[1]、翌月にアメリカ留学のため日本を出発した[3]。渡米後はエドウィン・ダンの協力とアメリカ農務省の紹介でニューヨーク州マウンテンヴィルのホートン農場へ立ち寄り、翌年までここに滞在しながら乳製品製造の実習に従事しながら留学費用を蓄える計画だった[3]。
1883年9月、メリーランド州ボルティモアのジョンズ・ホプキンス大学に入学[1]。新渡戸稲造が米国に滞在していることを知るとボルティモアに来ることを勧め、新渡戸もジョンズ・ホプキンス大学に留学することとなった[3]。佐藤や新渡戸は「歴史・政治学ゼミナール」教授陣のハーバード・D・アダムス、リチャード・T・イーリー(リチャード・セオドア・イリー)、ジョン・F・ジェームソンなどから多大な影響を受けた[3]。また、佐藤の所属した1886年歴史・政治学ゼミには後に第28代アメリカ大統領となるトーマス・W・ウィルソンもいた[3]。
教授陣のうちイーリーに対する評価は新渡戸とは大きく異なっており、新渡戸はイーリーの経済学は独創性に欠けると批判的だったが、佐藤はイーリーの『経済学入門』の翻訳版の許可を願い出てその「序」を執筆するなどイーリーの影響を強く受けている[3]。なお、同大学でアダムス博士から農政学を、イーリー博士から農業経済を学んだ。」とする説があるが、当時の米国では農業経済学が全くと言っていい程行われておらず、帰国後に札幌農学校で担当した分野から生じた憶測によるものとの指摘がある[3]。佐藤は1885年6月から4ヶ月間ドイツに留学している[1]。
1886年6月、ジョンズ・ホプキンス大学でPh.D.(博士号)を取得[1]。同年8月に帰国して北海道庁の所属となり、12月に札幌農学校教授となる[1]。1894年4月に札幌農学校校長に就任[1]。新渡戸稲造らと共に1899年、日本で初めて農学博士の称号を授与された。
1907年9月、札幌農学校から大学に昇格した東北帝国大学農科大学の学長・教授に就任[1]。1918年4月、同農科大学が東北帝国大学から独立して北海道帝国大学へと移行するのに合わせ、同帝国大学の総長に就任した[1]。
東京女子大学理事(1917年6月)や遺愛女学校理事長(1933年11月)を務めるなど、女性の教育機会拡大に熱心であった[1]。1918年に加藤セチが初めて北海道帝国大学農学部に入学した際にも支援を行っている[1]。
1931年には、出身の花巻市に現在の岩手県立花巻北高等学校創設にあたり、指示を仰がれ、甥の佐藤昌を指名する。
1932年、北海道大学構内に佐藤昌介の功績を称え、胸像が完成した。製作者は北海道出身の彫刻家、加藤顕清である。しかし、その後1943年、第二次世界大戦下における金属類回収令の影響により胸像は回収された。同じく同大学構内にあるクラーク像も回収されている。
その後1939年6月5日に死去[1]。8日に北海道帝国大学で大学葬が執り行われた[1]。
現在構内に位置する胸像は1956年に新しく建設されたものである。この「佐藤昌介像」は、「北区歴史と文化の八十八選」に選定されている。
佐藤昌介・新渡戸稲造を記念した寮、佐藤・新渡戸記念寮が北海道大学からやや離れた場所に建てられている。
栄典
- 位階
- 1911年(明治44年)9月11日 - 正四位[4]
- 1916年(大正5年)10月10日 - 従三位[5]
- 1924年(大正13年)7月1日 - 正三位[6]
- 1939年(昭和14年)6月5日 - 従二位[7]
- 勲章等
- 1901年(明治34年)12月27日 - 勲五等瑞宝章[8]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[9]
- 1924年(大正13年)6月30日 - 勲一等瑞宝章[10]
- 1926年(大正15年)5月10日 - 旭日大綬章[11]
- 1928年(昭和3年)11月10日 - 男爵[12]
親族
脚注
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 井上 高聡「〔展示〕沿革展示室第二期展示「佐藤昌介 : 北大の牽引者」」『北海道大学大学文書館年報』第13号、北海道大学大学文書館、2018年3月31日、80-101頁、CRID 1520009408734736256、 hdl:2115/70359、 ISSN 18809421。
- ^ 石井勇三郎「東京大学予備門と英語」『東京女子体育大学紀要』第32号、東京女子体育大学、1997年、48-58頁。
- ^ a b c d e f g 大櫃 敬史「「新渡戸稲造の米国留学時代における農学研究に関する実証的研究」 : ジョンズ・ホプキンズ大学所蔵文書の分析を中心として」『北海道大学大学院教育学研究科紀要』第101号、北海道大学大学院教育学研究科、2007年3月30日、55-67頁。
- ^ 『官報』第8469号「叙任及辞令」1911年9月12日。
- ^ 『官報』第1260号「叙任及辞令」1916年10月11日。
- ^ 『官報』第3565号「叙任及辞令」1924年7月11日。
- ^ 『官報』第3724号「叙任及辞令」1939年6月7日。
- ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第3559号「叙任及辞令」1924年7月4日。
- ^ 『官報』第4113号「叙任及辞令」1926年5月12日。
- ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
- ^ “佐藤昌介”. sapporo-jouhoukan.jp. 2020年12月18日閲覧。
- ^ a b c 『平成新修旧華族家系大成』上巻、682頁。
参考文献
- 北海道大学構内に位置する、「北区歴史と文化の八十八選」、佐藤昌介像パネル。
- 佐藤昌介博士の生涯
- 中島九郎『佐藤昌介』(川崎書店新社, 1956年)
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- [1] 無料公開マンガふるさとの偉人「北の大地を拓いた花巻の先人 佐藤昌介物語」発行 岩手県花巻市生涯学習部生涯学習課 2023年3月
外部リンク
- いわてゆかりの人々より、佐藤昌介
- 逸見勝亮「札幌農学校の再編・昇格と佐藤昌介」『北海道大学大学文書館年報』第2巻、北海道大学大学文書館、2007年3月、29-48頁、 CRID 1050564288937183872、 hdl:2115/20441、 ISSN 18809421。
- 知の系譜 -札幌農学校の教育- 「植物生理学」 W. S. Clark教授 / 佐藤 昌介 著 (1876) 北海道大学オープンコースウェア
学職 | ||
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先代 佐藤昌介 東北帝国大学農科大学長 |
![]() 1918年 - 1919年 |
次代 南鷹次郎 農学部長 |
その他の役職 | ||
先代 南鷹次郎 (新設) |
北海道農会長 1932年 - 1939年 1900年 - 1908年 |
次代 村上元吉 山田揆一 |
先代 (新設) |
財団法人八紘学院長 1934年 - 1938年 八紘学園長 1930年 - 1934年 |
次代 星野勇三 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 佐藤(昌介)家初代 1928年 - 1939年 |
次代 佐藤昌彦 |
固有名詞の分類
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