ユジノサハリンスク 文化・名物

ユジノサハリンスク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/16 10:58 UTC 版)

文化・名物

祭事・催事

午後8時を過ぎても「ユジノサハリンスク「まちの日」祭典」で賑わうレーニン広場(旧豊原駅前広場)
勝利広場(旧旭ヶ丘公園(その前は豊原競馬場(初代)))での対ドイツ戦勝記念日祝賀軍事パレード(2019年5月9日)
  • 日本映画祭(もしくは「サハリン国際映画祭」)- 毎年2月上旬。(解説HP
  • マースレニッツァ - 毎年3月1日(「春の訪れを祝う日」「バターの日」)。いわゆるロシア版「春分の日」であり、(正教会信仰伝搬以降は)ロシア正教会版「謝肉祭」とも言える。ロシアに東方正教会が伝搬する前から祝われていたとされている。市内主要イベントはガガーリン記念文化公園(旧御大典記念豊原市民公園)にて開催。定番料理は「ブリヌイ」。
  • 国際女性デー - 毎年3月8日。
  • 復活大祭 - 4月~5月上旬の内、いずれか1日間(毎年異なる)に定められ祝う正教会版「復活祭」。定番菓子は(「レアチーズケーキ」の元祖とも言われる)「パスハ」および「クリーチ」。
  • ビブリオノーチ - 毎年4月下旬。ロシア版「カルチャーナイト」。ロシア全土にある図書館の深夜開放が行われ、音楽ライブ・コンサートなどのイベントが開催される。2018年4月21日、サハリン州立図書館での開催状況解説HP
  • 労働者の祭典(ロシア版「メーデー」) - 毎年5月1日。集会、スラブ民俗アンサンブル野外演奏、市民パレードなど、ガガーリン記念文化公園(旧御大典記念豊原市民公園)や中心部目貫通りにて開催。
  • 戦勝記念日退役軍人パレード - 毎年5月9日。第二次世界大戦対ドイツ戦勝日であるが、近年では対日戦勝イベント色も強まっている。(ユジノサハリンスク勝利広場(旧旭ヶ丘公園(その前は豊原競馬場(初代)))での戦勝記念日祝賀イベント解説(2008年) - ウェイバックマシン(2018年10月6日アーカイブ分))
  • イド・アル=フィトル(断食終了の祝宴) - ユジノサハリンスク市内に在住する(旧ソ連構成国だった)中央アジア諸国出身者(中央アジア系の他、イスラム教に改宗した高麗系ソ連人をルーツに持つ在樺コリアンも含む)および二世・三世のイスラム教徒による祭日(ヒジュラ暦での10月月1日該当日付(例:2019年:6月4日)より3日間)。信者の各家庭などで宴席が設けられ、焼き菓子マアムールなど、普段より豪勢な料理がふるまわられる他、モスク施設への礼拝者が普段よりも増え、新調した服を着飾って街へ繰り出す等の祝い方をする。
    • 市内南西部の外れに立地する「メチェーチ・ユージュナサハリーンスク(ユジノサハリンスク・モスク)」へ数百人(数千人という証言もある)にも及ぶイスラム教徒が礼拝に殺到し、通勤にも支障を来しかねない交通渋滞が発生する事への苦情など、市内在住の他宗教信者および無神論者からは快く思われず、文明の衝突を危惧する警戒感も徐々に浸透。宗教・宗派問わずに市民全員が祝うという雰囲気には未だ至っていない。解説HP(ロシア語表記(使用ブラウザでの日本語自動翻訳表示による閲覧推奨))
  • ウラザバイラム(旧ソ連構成国での「イード・アル=アドハー(犠牲祭)」の呼称) - イスラム教徒による祭日(ヒジュラ暦での12月10日該当日付(例:2020年:7月31日、2021年:7月20日、2022年:7月9日)より4日間)。信者の各家庭などで宴席が設けられ、普段より豪勢な肉料理がふるまわられる。本祭事の浸透ぶりも、前述「イド・アル=フィトル」と概ね同じ。
  • 国際日ロ文化フェスティバル - 毎年7月中旬。解説HP
  • 人形劇 国際フェステバル - 毎年9月、人形劇劇場「奇跡の島」で開催。
  • ユジノサハリンスク「まちの日」祭典 - 毎年9月中旬、市役所前広場をメイン会場に市内各所(サハリン州立図書館、サハリン州郷土博物館(旧樺太庁博物館(三代目))で開催。夜には花火大会も開かれる。前身地方自治体とされるウラジミロフカ村開村を偲んで祝うイベント。
  • 冬祭り野外イルミネーション - 毎年12月下旬 ~ 翌年1月7日のシーズン期間中、ガガーリン記念文化公園(旧御大典記念豊原市民公園)や勝利広場敷地内の樹木に装飾が施され、野外ヨールカ(ロシア版クリスマス・ツリー)となる。その他、チェーホフ劇場など市内随所の建物外壁にもLEDイルミネーション装飾点灯がされる。ロシア版「おせち料理」とも言える新年定番料理は「オリヴィエ・サラダ」など。

名産・特産

前身自治体「豊原市」の名産・特産については、豊原市#名産品を参照の事。

菓子、嗜好品、料理、食料品
スタカーンチク
プリモールスキー・カンヂーチェル販売版「鳥のミルク」である「プリモールスキエ」
旧ソ連時代に多く普及したガラスコップ備え付けモルス自動販売機
スニェトーク
  • サハリンビール、林蔵ビール(コロス) - 前者はアルトビールスタイルを謳い文句に四種類(「トラジショナル」等)バリエーションがあり、後者は過去にロシア・ビール産業協会(本部:モスクワ)より『金十字』勲章を授与された実績がある。サハリンビールおよび間宮林蔵ビール 解説HP林蔵ビール 解説HP
  • 露天売りクワス、露天売りスタカーンチク(カップ型最中にロシア風ラクトアイスを充填した旧ソ連時代からの伝統的氷菓。「コップちゃん」のロシア語訳[81])、モルスコケモモ果汁ジュース)
  • SAKO(市内地元菓子メーカー「サハリーンスカエ・カンヂーチェルスカエ・オープシシェストヴァ(ロシア語表記:САХАЛИНСКОЕ КОНДИТЕРСКОЕ ОБЩЕСТВО)」ブランド)製菓子 - 旧樺太製糖株式会社豊原工場にて生産し、市内各地で販売されている。SAKO公式HP(ロシア語)旧樺太製糖株式会社豊原工場との関係解説HP
  • 板チョコレート「サハリン島」(プリモールスキー・カンヂーチェル社(ロシア語表記:Приморский кондитер)) - 包装パッケージにサハリン島地図が印刷されている。
  • ロシア版「鳥のミルク」 - 一口大のマシュマロメレンゲ・ミルクスフレをチョコレートコーティングしたポーランド発祥菓子に、旧ソ連国営ウラジオストク製菓工場(現プリモールスキー・カンヂーチェル)が考案した改良(寒天を追加)が施され、旧ソ連全土で好評を得て伝搬した定番菓子。「鳥のミルク」という商標は旧ソ連崩壊に伴う法整備の混乱の中、商標登録にいち早く着手した同業他社「ロット・フロント」(ロシア語表記「Открытоеакционерноеобщество "РотФронт"、ОАО "ОАОотФронт"」、本社:モスクワ、ロット・フロント販売版「鳥のミルク」公式HP(ロシア語))のみが名称使用権を独占出来た為、前述のプリモールスキー・カンヂーチェルでは「プリモールスキエ」という商品名で販売しており、前述のユジノサハリンスク地元製菓会社「SAKO」でも独自の商品名を充てて発売している。SAKO販売版「鳥のミルク」公式HP(ロシア語)
  • イーヴァンチャーイ(もしくは「イワン茶」「ヤナギラン茶」) - 12世紀よりロシア(当時はルーシ)で飲まれていた茶で、紅茶の代用品としても普及。主原料であるヤナギランはサハリンにも多く群生している。「ИВАН ЧАЙ」と表記。(解説HP1(上より11番目) - ウェイバックマシン(2015年9月18日アーカイブ分)、解説HP2
  • シロープ・クラパフキー(イワツツジ樹液シロップ) - 多くの樹液シロップに見られる無色透明ではなく、赤い色が特徴。「сироп клоповки」と表記。
  • サハリン風ロシア料理 - 地産地消風アレンジや嗜好の違いの反映等。揚げ調理が殆ど存在しなかったロシア料理の中で、東アジア周辺諸国料理からの影響を受け、揚げ物料理も採り入れられている。
    • サハリン風ピロシキ - 焼きピロシキが主流のロシア本土風ピロシキとは違い、日本風の様に揚げピロシキが主流。自由市場などでも、露天売りされている。
    • サハリン風ボルシチ - ロシア本土風に比べ、塩味が強く、ビーツは少ない。
    • サハリン風ザピカンカ(ロシア版「グラタン」且つロシア版「キッシュ」且つロシア版「(ポーランド版)バケットピザ」) - ロシア本土版に比べ、鮭の身が多用されている。
  • サハリン風中央アジア料理、ロシア風中央アジア料理
  • ロシア風朝鮮料理 - 多くの在樺コリアンが居住していることによる。
  • サハリン風日本料理、ロシア風日本料理
    • ドーンカツ(サハリン風トンカツ) - 「Донкацу」と表記。解説HP
    • サーモンロール、溶岩巻き、スイートロール、スーシ・ビズリーサ - ロシア人寿司職人による創作寿司(「溶岩巻き」は赤いとびこ入りマヨネーズを海苔の代わりとした巻き寿司。「スイートロール」はシュガー・ミルクで炊いて軽くすり潰したライスで各種カットフルーツを巻いた巻き寿司型「ライス・プティング」。「スーシ・ビズリーサ」はロシア風「米未使用(ご飯部分を野菜やチーズで代用)変わり寿司」。)。
    • アンコロモチ - ロシア版「大福餅」。
  • 加工品(塩漬け、スモークサーモン、干物)、イクラ、スニェトーク(子持ちキュウリウオ干物)、サハリン産ガゴメコンブ解説HP
雑貨、宝飾品
マトリョーシカ

スポーツ

サッカー

FCサハリン・ユジノサハリンスク試合チケット
  • FCサハリン・ユジノサハリンスク - 1969年創設。ホームスタジアムは(勝利広場(旧旭ヶ丘公園(その前は豊原競馬場(初代))))屋外サッカー場「スパルタク・スタジアム。1992年(当時、ピーク人口5万1800人を迎えていた)同州都市ホルムスク(旧真岡町)に一度ホーム移転(チーム名称も「FCポルトヴィク・エネルギア・ホルムスク」に改名)していたが、2004年より再びユジノサハリンスク市にホーム復帰。2011年にはロシア全体の3部リーグに当たるロシア・セカンドディビジョンに所属。
  • かつて1993年~1995年(FCサハリンがホーム地をホルムスクに移転していた期間)の間、(ロシア国内の各地に様々なスポーツクラブを保有・運営していた)アヴドモビリスト(もしくは「アフトーマビリスト」。ロシア語表記:Автомобилист)もユジノサハリンスクをホーム地とするサッカー新クラブ「アフトーマビリスト・サハリン」を創設・運営していたが、現在は存在しない(解散したのか、ホーム地をロシア国内の別都市に移転したのか、それとも他クラブに吸収統合されたのか不明(調査中))

アイスホッケー

アジアリーグアイスホッケー「PSKサハリン 対 王子イーグルス」(アイスパレスクリスタル。2016年4月10日)
  • PSKサハリン - チーム創設は2013年。2014-15シーズンよりアジアリーグアイスホッケー参入。ホームリンクは多目的屋内型スポーツ施設「アイスパレスクリスタル」。旧称は「サハリンシーライオンズ(「シーライオン」とはアシカの英訳)」および「HCサハリン」。
  • サハリンスキー・アークルィロシア語版(ロシア語表記:Сахалинские Акулы。「サハリン生息サメ」のロシア語訳) - チーム創設は2013年12月3日。所属リーグは「ロシア・ユースホッケー・リーグMHL」。ホームリンクは(後述の大型ショッピング・モール「シーチ・モルル」敷地内にある)屋内スケートリンク施設「アリェーナ・シーチ」。2014年から2017年までMHLチャンピオンシップに出場。アジアンチャレンジカップ2014にての優勝実績あり。

バレーボール

女子バレーボール
  • PSK「サハリン」 - チーム創設は2012年。前述のアイスホッケークラブおよび後述のバスケットボールチームと経営会社およびホームスタジアムは同一。2016年4月、ロシア2部リーグ「ロシアAリーグ」で優勝を果たし、ロシア1部リーグ「ロシア・バレーボール・スーパーリーグ」に昇格。

バスケットボール

  • ヴァストーク65 - 創設当初のクラブ名は「サハリン」。前述のアイスホッケークラブおよび女子バレーボールチームと経営会社およびホームスタジアムは同一。ロシア1部リーグ「ロシア・バスケットボール・スーパーリーグ」男子ディビジョンA昇格を目指している。

宗教

キリスト教

ロシア正教会
復活主教座聖堂(2014年6月30日)
復活主教座聖堂(2011年11月6日)
復活主教座聖堂(2007年1月11日)
キリスト降誕聖堂(2016年9月24日)
前々身自治体である旧ウラジミロフカ村中心部(旧北豊原地区。レーニナ通り(旧豊原大通り)を北方向に大きく延長した「サヴィェーツカヤ通り((旧豊原市時代の東西南北起点である)サハリーンスカヤ通り(旧真岡通り)交差点より北方向約7km以北。サヴィェーツカヤ通りとススヤ川(旧鈴谷川)の交差近辺))」沿い)に建つ「スモレンスク聖堂」の当時の建物(画像右側))
聖ニコライ聖堂(冬期撮影)
聖ニコライ聖堂(2010年8月7日)
聖ニコライ聖堂付設庭園(2010年8月7日)

1666年以降、ニーコン総主教による奉神礼改革を嫌って主流派より分離した古儀式派ロシア正教会も含む。 グーグルマップ「русская православная церковь Южно-Сахалинск」 の参照も推奨。

  • 復活主教座聖堂(サボール・ヴァスクリェシェーニヤ・フリースタヴァ(Собор Воскресения Христова)) - 2016年に竣工。ガガーリン記念文化公園(旧御大典記念豊原市民公園)内(カムサモーリスカヤ通り(旧東11条通り)およびカムニスチーチェスキー通り(旧神社通り)が交差する南西角。かつて共産党関連施設が集積していたチェーホフセンター向かい)にて建立された。解説HP①解説HP②グーグルストリートビュー画像
  • キリスト降誕聖堂(サポール・ラジュデーストヴァ・フリースタヴァ(Собор Рождества Христова)) - 勝利広場(旧旭ヶ丘公園(その前は豊原競馬場(初代)))に建設。高さは同国極東地域では最大の約70m。グーグルストリートビュー画像(撮影当時はまだ建設中)
  • サンクトペテルブルク「至福のクセニア」教区教会(プリホート・ブラジェーンナイ・クセーニイ・ピェーチェルブルクスカイ(Приход Блаженной Ксении Петербургской)) - 1988年、約5,000人以上居るロシア正教会聖人に加えられたサンクトペテルブルク出身女性「クセニア・ペトロフスカ」を祀っている。解説HP(上から4番目)グーグルストリートビュー画像
  • 高位聖職者インノケンティウス・モスクワ高名教会(フラーム・ヴォ・イーミャ・スヴァーチチェリャ・インナケーンチヤ・ミトローパリタ・マスコーフスカガ(Храм во имя Святителя Иннокентия митрополита Московского)) - ロシア正教会およびカトリック教会で聖人とされるローマ教皇インノケンティウス1世を祀っている。グーグルストリートビュー画像
  • スモレンスク聖堂(フラム・スモレンスコイ・イコニ・ボジエイ・マテリ(Храм Смоленской иконы Божией Матери)) - 主に生神女イエスの母マリア)を祀っている。(旧豊原市にとって旧市街ともいえる)前々身自治体「旧ウラジミロフカ村」中心市街地(旧北豊原地区。レーニナ通り(旧豊原大通り)の北方向延長上に連なる二つの通り(一番目は「ドゥルーブジュィ通り」)の二番目通り「サヴィェーツカヤ通り(サハリーンスカヤ通り(旧真岡通り)との交差起点(旧豊原市時代の起点)より北に約9km。サヴィェーツカヤ通りとススヤ川(旧鈴谷川)の交差近辺))」沿い)に立地。1890年10月1日の「聖母(生神女)庇護祭の日」に行われた聖別式開催後、(サハリン島南部を訪れていた)作家アントン・チェーホフも聖職者達と共に雑魚寝して一夜を過ごしている[82][83]グーグルストリートビュー画像(建物も建て替えられた現在の「スモレンスク聖堂」)
    • 日本による領有当初、小学校校舎として臨時利用されていた時期があった[84]
    • 全ての宗教が厳格に規制されていた旧ソビエト時代、土葬が一切禁止され、多くの教会施設が火葬場施設として再利用されていた[85](その他、「アルコール中毒患者療養所」として再利用されるケースもあった[86])が、同時代中のユジノサハリンスク市に於いてスモレンスク聖堂もその任を背負わされていたかは不明(調査中)。
  • 聖ニコライ聖堂(フラーム・スヴャーチチェリャ・ミコーラヤ(Храм святителя Николая)) - ミーラ大通り(旧東7条通り)およびヴァリニーシュナヤ通り(旧南19丁目通り)交差点沿い(南東区画)に立地。グーグルストリートビュー画像
  • 日本統治時代、ゲオルギー・アレクセーヴィチ・チホミーロフ京都教区主教(当時。20年後である1931年、日本府主教に昇格)および聖職者ニコライ・クジミンが日本政府の協力も得て旧豊原市内に設立を目指していたロシア正教会については、豊原市#キリスト教(ロシア正教会)系を参照の事。
カトリック
ユジノサハリンスク・カトリック教会
プロテスタント
複音の家パブテスト教会(ユジノサハリンスク市)

市内にある教会施設の大半は福音派となっている。

イスラム教

ロシア連邦中央ムスリム宗務局(もしくは「イスラム教徒中央精神統治」や「イスラム教中央組織精神統率庁」とも呼称)シベリアおよび極東ムスリム宗務局(もしくは「極東支部」とも呼称)アフマト・ガリフリン代表による公式発表では、ユジノサハリンスク市内在住者の内、信者数は公称:約4万人とされている。2003年頃より、同市内にモスク設置を求める要望が挙がっており、同市内にあった「元修理工場」廃墟を臨時モスクに使用。一時は「(パナラーマホテル系列の商業施設が林立する)エミェリヤーナヴァ通り(旧南13丁目通り)沿い」や「(医療施設が林立する)ヴァリニーシュナヤ通り(旧南19丁目通り)およびカムサモーリスカヤ通り(旧東11条通り)交差点沿い(グーグル・マップ)に立地する植林公園内」での建築・開所が内定していたが、行政側の対応が遅れ、約12年越し、しかも建物の新築や大掛かりな外面改装は事実上認められない等の制約を受けた上で、(同市内にある国家機関所有不動産の一つを間借りした形で)下記の「メチェーチ・ユージュナサハリーンスク(ユジノサハリンスク・モスク)」が認可され、運営している[87]

開所当初の礼拝者は約100名程だったが、わずか半月程で約500名にまで激増した[88]

市内には現在、二つのイスラム教団体「サハリンイスラム教徒共同体(代表:マクシム・スロフツェフ)」および(「ロシア連邦中央ムスリム宗務局」傘下である)「シベリアおよび極東ムスリム宗務局」下部組織「イスラム教徒組織サハリン(代表:アブドゥリ・ヴァヒト・ヌリスラモフ導師)」が林立している。サハリン州に於いては前者団体の方が歴史が深く、(もう一方の団体「イスラム教徒組織サハリン」の上部組織)「中央ムスリム宗務局」からの干渉・制約を否定。一方、後者も「サハリンイスラム教徒共同体」運営にマドラサ(イスラム教神学校)出身者が居ない事等を指摘し続け、両者の関係は良好とは言えない状態が続いている。

2013年4月4日、「保護区への移動に関連する手続き」申請目的でサハリン州を訪れたロシア軍将校1名に(2003年2月14日よりロシア国内での活動が非合法とされた)ヒズブ・タフリール構成員の嫌疑が掛かり、逮捕を機にピストルと手榴弾の所持が発覚したとされる(この件について、「サハリンイスラム教徒共同体」は「完全に捏造された事件」と見ており、「イスラム教徒組織サハリン」副代表イルシャート・マニーウラフは「どの様にして、ユジノサハリンスク空港(二代目)での所持品検査から銃と手榴弾を隠す事が出来たのでしょうか?」と疑問めいたコメントを出している)[89]

2014年4月4日、イスラム過激派文献の保管をFSB(ロシア連邦保安庁)に疑われ、E. ヤネンコ裁判官による「犯罪捜査対策:部屋、建物、施設、敷地と交通手段の調査」実施命令に基づき、カムニスチーチェスキー通り(旧神社通り)49に立地するサハリンイスラム教徒共同体事務所が一斉捜査を受けている。この際、ラップトップPCと幾つかの宗教文学書が押収されている[89][90]

2017年4月26日には、同市内でスンナ派過激組織「イスラム国(IS)」の支持者とおぼしきロシア人および中央アジア出身者の2名をロシア連邦保安庁が拘束。同市内に於ける市民密集地でのテロ計画が発覚し、拘束者居住先にて爆発物などが押収されている[91]

日本統治時代に建てられた宗教施設

1929年(昭和4年)の旧豊原市街地図。幾つかの寺院名・立地場所が確認出来る。
1933年(昭和8年)以降の旧豊原豊原市街地図。「寺」とだけ記載された宗教施設が幾つか確認出来る。

1947年(昭和22年)、ソ連科学アカデミーサハリン科学研究基地に所属する複数の研究者により、景徳寺および樺太神社を「日本の宗教の重要な歴史的記念物」として同科学研究基地で保全管理出来る様、サハリン州ソビエト執行委員会に対し移管要請したが取り合ってもらえず、その後、これら二施設は破壊された[92]

1948年(昭和23年)、樺太護国神社の本殿など境内の全建物が解体撤去される[93]

1960年代(昭和30年代後半~昭和40年代前半)、フルシチョフカ様式アパート群および駐車場の建設に伴い、北辰神社境内環境の撤去および境内を流れていたススヤ川(旧鈴谷川)支流が埋め立てられ、消失する[94]

2000年代から2010年代半ばにかけて神奈川大学らの研究者が現地調査を実施した[80][95]

2004年、北海道大学による「北海道大学グローバルCOEプログラム」の一環として、旧南樺太地域の神社跡地における現地調査を実施。戦前・戦後の関連資料収集・整理および2100枚におよぶスライド撮影画像を26枚の調査シートにまとめデータベース化している[96]

神道系
かつての旧官幣大社樺太神社(建造物の殆どは現存せず)
現在の旧官幣大社樺太神社跡地に造られたコンクリート製の校倉様式宝物殿風建造物
  • 官幣大社樺太神社主祭神大国主神大己貴命少彦名命) - 当時の住所は「豊原市豊原町旭ヶ丘」。設計者は朝鮮神宮設計も手掛けた建築家「伊東忠太」。創立年月日と列格年月日および鎮座祭は1910年(明治43年)8月17日。例祭日は毎年8月23日。現在、当時の建造物は全て解体撤去されており、跡地には石段と湧き水小屋(木造建築)、および1963年昭和38年)に境内拝殿跡地に建てられたコンクリート製3階建て洋館(旧ソ連時代に建てられた共産党幹部専用迎賓館。ペレストロイカを機に市営ホテル「ゴールカ」となり、2002年以降より個人所有の会社事務所となっている)、その他、1990年代に社務所跡地に建てられたコンクリトー製2階建てスポーツ関連施設(サウナ、事務所)[97]と(建造時期や建造目的がはっきりとしていない)校倉様式宝物殿風デザインのコンクリート製高床式建造物が残っている[98]。内側の壁にロシア語の文章が刻印された大きな金属プレート(Google提供の当該画像)が掲げられている宝物殿風建造物の管理は事実上放棄状態に近く、内部は心無い落書きで荒らされている。他の詳細については、「ロケットニュース24による現況解説記事 」および「樺太(サハリン)の建築②豊原 - 地域のお宝さがし-58」内「■樺太神社跡■」」を参照の事。
  • 旧樺太護国神社(主祭神西久保豊一郎命(西久保豊一郎陸軍歩兵少佐)、他653柱) - 当時の住所は「豊原市大字南豊原字南3線16番地」。創立年月日は1935年(昭和10年)9月3日、創建年は1908年(大正4年)。例祭日は毎年7月7日。現在、ゴーリカヴァ通り(旧東14条通り)沿い(栄光広場(旧「官幣大社樺太神社鳥居前広場」および初代「豊原競馬場」跡地) - 勝利広場(旧「旭ヶ丘公園」) 間のほぼ中間)にある(1960年代(昭和30年代後半~昭和40年代前半)に建設された)ユジノサハリンスク市立病院後庭に近接。建物は残っていないが、階段・基壇・土台は残っており、同病院正面右入り口に燈籠らしき(「奉納/佐々木時蔵/昭和十年」と彫られた)石台が残っている。前述病院建物の中で伝染病隔離病棟が最も近い事もあり、市民から忌避されてきた為、然程荒らされていない。立地場所(グーグルマップ)
  • 県社豊原神社樺太招魂社(主祭神天照皇大神豊受大神明治天皇昭憲皇太后) - 当時の住所は「豊原市大字豊原字北2線東4番地ノ乙」。創建年月日は1908年(明治41年)7月11日、創立年月日は1910年(明治43年)8月31日、列格年月日は1928年(昭和3年)11月5日。例祭日は毎年6月16日。現在、神社跡地を偲ばせる形跡は(敷地を斜めに流れる小川「ロガトカ川(旧玉川)」支流を除き)地面に埋没した礎石および二本の樹木(マロニエ)以外、一切残っていない。戦後すぐにコンクリート製2階建ての保育園が建設・開園。2000年代前半頃に死体検死所となり、現在は文房具店「カーンツ・ビューラ(Канц-Бюро)」が立地している。グーグルストリートビュー画像
  • 旧北辰神社(主祭神北辰妙見尊星王(妙見菩薩)天御中主大神神仏習合の影響により)) - 当時の住所は「豊原郡豊原町大字北豊原字北2線西1番地」。創立年月日は1924年(大正13年)2月2日。例祭日は毎年6月25日。跡地には、正面玄関形状が赤い鳥居風(赤い東洋風屋根も装飾されている)のギェオーラク・ホテル(ロシア語表記「Геолог Гостиница」)が立地している。実際に鳥居や石段を再利用したのかは不明。グーグルストリートビュー画像
    • 「北辰園」と呼ばれる公園施設も併設されていた。
  • 旧追分神社(主祭神:天照皇大神、豊受大神、八幡大神天御中主大神、西久保豊一郎命(西久保豊一郎陸軍歩兵少佐)、他18柱) - 当時の住所は「豊原市追分」。所在地は現在、ホールムスカエ・ショーッシェ(「ホルムスク(旧真岡)街道」のロシア語訳。ロシア語表記:Холмское Шоссе)北東側沿いに立地している(ロシア大手バス車両メーカーであるGAZ Group)ディーラー販売店「サーフ・スピェーツ・テーフ(ロシア語表記:Сах Спец Тех)」付近。グーグルストリートビュー画像サーフ・スピェーツ・テーフ公式HP(ロシア語)GAZ Group - 英語版Wikipedia
  • 西久保神社主祭神:西久保豊一郎命(西久保豊一郎陸軍歩兵少佐)、今村善男命、市原留吉命、久芳喜一命、林源三命、白山甚之助命、中島松五郎命、塚本紋太郎命、佐々木佐市命、小泉経松命、増田悦蔵命、門井政之助命、大貫鉄太郎命、小川佐治郎命、中村伊一命、中谷次郎市命、見波嘉一郎命、熊沢関蔵命、田代伊兵衛命) - 当時の住所は「豊原市西久保大字軍川字軍川」。所在地である旧軍川(いくさがわ)地区は現在、放射形状に再区画されダーチャ一大集積地区になっている。創立年月は1915年(大正4年)。例祭日は創立年と同年7月2日。日露戦争の英雄である西久保豊一郎少佐(西久保豊一郎)と他の18人の軍神が祀られた。西久保豊一郎少佐の兄で、当時、第13代北海道庁長官であった西久保弘道は、亡き弟の形見である軍刀を西久保神社に寄贈している。
  • 王子稲荷神社主祭神宇迦之御魂神宇気母智之神和久産巣日神) - 王子製紙豊原工場敷地の南東方向に配置されていた社宅街敷地内の南東角辺り(同敷地南部を東西に横切るロガトカ川(旧玉川)河畔南側を北方向に、生地店「ドーム・トカーニ(「布織物の家」のロシア語訳。ロシア語表記:Дом Ткани)」および「Oooカンチーニェント(「Ooo大陸」のロシア語訳。ロシア語表記:Ооо Континент)」および弁護士事務所「アドヴォーカトュイ・マカーラヴァ・イ・ヴェルシーニン(ロシア語表記:Адвокаты Макарова и Вершинин」(旧山林社宅)を南方向に、そしてフィズクリトゥールナヤ通り(やや北東方向近隣に前述「複音の家パブテスト教会(ドーム・エヴァーンゲリヤ(Дом Евангелия))」が立地)を東方向として挟まれた中間位置辺りに設けられていた[99]。2004年時点では、境内跡地は「山羊および羊の放牧地」兼「牧草地」として再利用され、草むらに覆われた灯籠の台座1基が確認されている[100]Карафуто. Дзиндзя Ōji Inari - Retro photos(当時の画像および立地地図も閲覧可能。ロシア語)グーグルストリートビュー画像(旧社殿背面と思われる東方向より)グーグルストリートビュー画像(旧社殿正面と思われる西方向より)
  • 旧清川神社(主祭神市杵島姫命(イチキシマヒメ)) - 当時の住所は「豊原市大字清川字清川」。
  • 旧大沢神社(主祭神:天照皇大神、大国主命稲荷大神)- 当時の住所は「豊原市大字大沢字大沢」。
  • 旧下並川神社(主祭神:少彦名命、天照皇大神、大国主命) - 当時の住所は「豊原市下並川」。
  • 唐松神社主祭神:天照皇大神) - 当時の住所は「豊原市大字唐松字唐松」。
  • 旧竝川神社(主祭神:天照皇大神) - 当時の住所は「豊原郡豊原町竝川」。
仏教系
  • 旧景徳寺(文献によっては「景行寺」とも記述) - レーニナ通り(旧豊原大通り)とハバローフスカヤ通り(旧南3丁目通り(ユジノサハリンスク駅(旧豊原駅)線路以東))が交差する角地(北西側区画)のやや奥に立地していた(ちなみに同交差角地の北東側区画にはサハリン州立美術館(旧北海道拓殖銀行豊原支店)が立地)。現在、建物は現存せず、跡地に家具・建築資材店「タルゴーヴィ・ドーム・インチェークス(ロシア語表記:Торговый Дом Интэкс。「住宅売買インテックス」のロシア語訳。数年前迄の商号は旧「ドーム・メーベリ(「家具の家」のロシア語訳)」)」が立地している。グーグル・ストリートビュー
  • 日蓮寺 - パピェードゥイ大通り(旧南10丁目通り)南側にT字に繋がるアムールスカヤ通り(旧東1条通り)沿い(「ギームナジーヤー No.2」(「第二体育館」のロシア語訳。ロシア語表記:Гимназия №2。旧「樺太公立豊原第二国民学校」)南西近隣付近)に立地していた。建物は現存せず跡地にはフルシチョフカ様式アパート群が林立している。グーグル・ストリートビュー
    • 1978年(昭和53年)時点では、旧日蓮寺(および近隣に立地していた旧「樺太公立豊原第二国民学校」校舎の一部)建物が残っていた事が、「全国樺太連盟」墓参団による記録映像「樺太墓参の記録(1978)2/3 - YouTube ※ 「11:52」付近より。」(および解説ナレーション音声)で確認出来ている。
  • 乗願寺 - 上述の「旧日蓮寺」西方向に隣接して(同じくパピェードゥイ大通り(旧南10丁目通り)南側およびアムールスカヤ通り(旧東1条通り)立地していた。1974年頃迄には、地区郵便局建物として利用されていたが、現在、建物は現存せず跡地には美容院「ユージュナヤ(ロシア語表記:Южная。「南」のロシア語訳)」、スーパー「ガストロノム・ユジュニ(ロシア語表記:。「ユジュニー食料品店」のロシア語訳)」、ドラッグストア「アプチェーカ № 24(ロシア語表記:Аптека № 24。「第24薬局」のロシア語訳)」、靴店「ラルフ・リンガー」が立地している。グーグル・ストリートビュー
  • 法恩寺 - ハバローフスカヤ通り(旧南3丁目通り(ユジノサハリンスク駅(旧豊原駅)線路以東))およびクリーリスカヤ通り(旧南2丁目通り(ユジノサハリンスク駅(旧豊原駅)線路以東))南側付近に立地していた。グーグル・ストリートビュー
  • 慈恵院 - 旧南八丁目および「チェーハヴァ通り(旧東3条通り)」「ラジュジェストヴェーンスカヤ通り」「クラースナヤ通り(旧東4条通り)」に囲まれた付近に立地していたが、建物は現存せず。跡地南西部分には後述されている商業施設「スラビヤンスキー・バザール」、同南東部分にはフルシチョフカ様式アパート、同北西部分には生地店「リュビモエ・デロ(ロシア語表記:Любимое дело。「好きな商売」のロシア語訳)」、国際宅配便「クリエル・セルヴィス・エクスプリェース(ロシア語表記:Курьер Сервис Экспресс。「特急宅配便」のロシア語訳)」、「ソガス保険(ロシア語表記:Согаз)」、高級喫茶「チェルナヤ・コーシュカ(ロシア語表記:Черная кошка。「黒猫」のロシア語訳)」、同北東部分にはエステティックサロン「グロッス(ロシア語表記:Глосс)」、日焼けサロン「ソリャリ・リュクス(ロシア語表記:Солярий Люкс)」、喫茶「ブランチ・カフェ」、建築会社「エスカーエフ・スフェーラ(ロシア語表記:СКФ "Сфера"。「SKF球」のロシア語訳)」が立地している。グーグル・ストリートビュー(北西角より中央方向)グーグル・ストリートビュー(北東角より中央方向)グーグル・ストリートビュー(南西角より中央方向)グーグル・ストリートビュー(南東角より中央方向)
  • 弘法寺 - 1974年頃迄には、住居として利用されていた。

本節の冒頭付近にて画像掲載されている「1933年(昭和8年)以降の旧豊原中心部」地図にて、「寺」とのみ記載されている(ちなみに「1929年(昭和4年)の旧豊原市街」地図ではまだ存在していないらしく未記載)下記寺院は、上述した旧弘法寺もしくは別の寺院かは不明。

墓地

(ギリシャ系以外の正教会全般で多く見られる)八端十字架が建つ共同墓地(ユジノサハリンスク市)
  • スターラエ・クラードゥビシシェ(ロシア語表記:Старое Кладбище。「古い墓地」のロシア語訳を冠した「ユジノサハリンスク共同墓地」) - 旧樺太公立豊原第四国民学校跡地(「旧南16丁目通り」および「プーシュキナ通り(旧東2条通り)」交差点角地の南西側区画。路線バスで南へ約40分程)に立地。墓地内には墓参者向けのベンチやテーブルも設置されている。
    • 奥にある日本人墓地は容易に乗り越えられない程の高さがある(黒色塗装金属製の檻の様な)塀で囲っている。
    • グーグルマップで同墓地を検索すると、神社の鳥居画像が併せて表示されるが、その様な建造物は此処には存在していない。
    • 市内在住のイスラム教徒および市内イスラム組織「サハリンイスラム教徒共同体」「イスラム教徒組織サハリン」からは、イスラム法に従って整備された(別敷地での)集団墓地を求める要望が起こっている[87]
かつて存在していた共同墓地
  • 旧豊原市共同墓地および旧豊原市火葬場 - 北端墓所区画の西側が火葬場で、その他の墓所区画は全て共同墓地。
    • 「旧豊原市火葬場」跡地については、(後述の「グーグルマップ空撮画像」撮影以降)サハリン州立病院が建設・開院している[102]
    • 「旧豊原市火葬場」跡地に建つサハリン州立病院敷地の外側周辺に、樺太地上戦で犠牲となった日本人民間人の遺骨が少なくとも約100人埋まっているとされており[103]、約72年の時を経た2017年10月中旬、一般社団法人「全国樺太連盟」および「ピアニェール財団(サハリン州およびロシア石油公団の支援で設立されたロシア兵士(および日本兵・民間人)遺骨調査ボランティア団体。実働メンバーの中核は退役ロシア軍人であり、名称が酷似している旧共産主義少年団との関係・関連は皆無)[104]」により、日本人参加としては初の発掘調査が行われた[105]
    • グーグルマップ空撮画像で跡地(霊園内道路により区切られた多数の墓所区画)の目視が可能(該当部分のグーグルマップ空撮画像)。(ソ連侵攻に備え、終戦日より更に2日越しである1945年(昭和20年)8月17日まで工事を続行させ完成させた)「豊原大澤飛行場」が東方向(沼沢地)に隣接して開港されており、1945年(昭和20年)10月~1964年(昭和39年)の期間は「旧ユジノサハリンスク空港(初代)」として運営されていたが、誘導路の設置工事により豊原市共同墓地の南東付近にある墓所区画の一部が侵食されているのが確認出来る(詳細は有志の方が調査・作成した「旧ユジノサハリンスク空港(初代)」設備解説空撮画像と前述「グーグルマップ空撮画像」を比較参照の事)。その他の跡地の再利用らしき動きは見られない。墓石らしき物体は確認出来ず、埋葬されていた各故人の遺骨について現在も残されているのか等、不明(調査中)。
    • 1933年(昭和8年)の豊原市地図では、「センチャーブリスカヤ通り(旧西6条通り)とザーガラドゥナヤ通り(旧西7条通り)の中間通り」・「プルカーイェヴァ通り(旧南15丁目通り)」・「カローデズナヤ通り(旧西9条通り)」・「エシェーニナ通り(旧南17丁目通り)」に囲まれた敷地に立地の様な記述がされているが、共同墓地敷地の拡大や測量の誤りで実際の立地と若干相違が見られる。
  • 前々身自治体「ウラジミロフカ村」時代の帝政ロシア人墓地 - 「(ユジノサハリンスク郵便局(旧逓信省豊原郵便局)北方向裏側沿いである)ビブリオーチェシュヌィ通り(旧南4丁目通り)」・「旧西1条学校(1930年代の旧豊原市地図では旧西1条通り沿いの教育機関施設を確認出来ず。後身施設(移転先)調査中)付近以南」・「ヴァクザーリナヤ通り(旧西2条通り、旧別名:停車通り)」に囲まれた敷地一帯に立地していたが、ゲオルギー・アレクセーヴィチ・チホミーロフ京都教区主教旅行記にて「計画的に区割りが進められている市街地の一角に、ロシア人が置き残していった墓地が見つかったが、棺は全て掘り返され、遺骨や遺体とともに焼き捨てられた…」と言及されている[106][107]
    • 旧ウラジミロフカ村でのロシア正教会「スモレンスク聖堂」に保管されていた洗礼記録を元に(キリスト教圏全般で厳格に禁忌とされている自殺者を除いた)信者のほぼ全員が土葬(火葬は特に禁忌とされていないが、特に事情でも無い限り、正教会信者は忌避を望んでいた為)[108])されていた。

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  103. ^ 書籍「NHKスペシャル 戦争の真実」シリーズ 第2巻「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」(著:NHKスペシャル取材班、出版:角川書店、発刊:2019年10月25日、ISBN978-04-106738-3 C0095)収録「第11章 帰れぬ遺骨」内「2 戦後72年の遺骨収集」内「ロシアの支援団体の協力を得て、遺骨を探す(136頁)」
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  105. ^ 書籍「NHKスペシャル 戦争の真実」シリーズ 第2巻「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」(著:NHKスペシャル取材班、出版:角川書店、発刊:2019年10月25日、ISBN978-04-106738-3 C0095)収録「第11章 帰れぬ遺骨」内「2 戦後72年の遺骨収集」内「ロシアの支援団体の協力を得て、遺骨を探す(135頁)」
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