YXXと777、787
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ボーイング767は一部で設計から参加できたとはいえ、実態は下請けと変わらない姿に日本の関係者の不満は募り、767開発開始の翌1979年(昭和54年)8月、新たな国産機「100席クラスまたはそれよりやや大型」旅客機の開発計画が始まった。これがYXXである。しかし、「日本が主体性をもつ」こととしたはずのYXXも、結局1984年(昭和59年)からボーイングの7J7計画に取り込まれて共同開発となってしまったが、エンジンの開発不調によって計画は遅々として進まなかった(詳細はYXX参照)。 一方、ボーイングは国際分担によって開発費を減らすことと、納期を守る上に低価格高品質な日本の技術力、日本が気前良くはずむ開発費に味をしめ、747と767の間を埋める350席クラスの中型旅客機7-7を共同開発しないかと日本に打診した。 日本航空機開発協会(JADC、民間輸送機開発協会に1983年(昭和58年)、新明和工業と日本飛行機が参加して改組)は参加を決定した。実質、YXの2機種目であったが、767の経験から細心の注意を持って交渉に臨み、日本の分担を21パーセント(胴体の大部分、中央翼、主翼胴体間フェアリング、主翼リブなど多数)まで伸ばすことができたが、やはり最重要な部分からは締め出された。7-7は1990年(平成2年)10月に米ユナイテッド航空から大量発注を受けたことから、ボーイング777と名づけられて開発がはじまった。日本側も2機種目ということで開発・製造もかなり慣れ、1994年(平成6年)4月9日、1号機がロールアウトした。この際、「世界最大の双発旅客機」として盛大な式典が催されたが、ただただボーイングの自慢が続き、開発の5分の1を占めるはずの日本勢は陰に隠れてしまった。777はその後初飛行に成功、翌年に就航した。日本は777の開発費として約1000億円を支払った。 ボーイングは777の開発がほぼ終わりを迎えた1994年、エアバスA380に対抗する超大型旅客機747X計画で「777を上回る開発比率」として、主翼・中胴など日本側が求めていたものへの参加を許可し、A380に協力(エアバスは日本に10パーセントほどを負担してほしいと考えた)させないように仕組んだ上で、2000年(平成12年)に747Xを延期(実質中止、実際は500X/600、400LR、747Xの三回に亘って計画を変更した)、747X計画に代わる遷音速旅客機ソニック・クルーザー計画へ全体を横滑りさせ、JADCもこれに参加を表明したが、2002年(平成14年)には再び計画を凍結(実質中止)した。 様々に振り回されてきたものの、日本企業にとって767と777への参加は非常に重要だった。767以前、日本の航空機メーカーの仕事の9割以上は防衛庁関連のものであったが、767と777によって民需への可能性を開くことができたと同時に、冷戦の終結によって世界的な軍縮の中で、防衛庁関連の受注も今後は伸びないであろう事から、積極的に民需への移転が必要とされるようになっていた。三菱重工業は後にカナダのボンバルディア・エアロスペースと協力関係を強め、川崎重工業もブラジルのエンブラエルと協力体制をとることで、2001年(平成13年)には民需が4割を占めるまでに成長した。民需重視は今後も進み、特に三菱は2000年(平成12年)5月、ボーイングと宇宙機器や新型旅客機などにおいて包括提携を結び、今後は民需関連を5割以上に高めることとしている。 2003年(平成15年)に、ソニック・クルーザー計画に代わる中型旅客機7E7計画が発表された。7E7は2005年(平成17年)に開発が決定してボーイング787となり、JADCの担当比率は主翼・中胴など最重要部分を中心に35パーセントとなった。787は2007年(平成19年)7月8日にロールアウト、2008年(平成20年)中の初飛行および納入を予定していたが、下請け丸投げな製造体制はうまく機能せず、開発遅延による度重なるスケジュールの見直しで初飛行は2009年(平成21年)にずれ込み、2011年(平成23年)に納入されて就航した。しかし、度重なる電気系統の不具合により米連邦航空局より耐空性改善命令を受けて飛行停止になるなど問題山積の航空機となってしまった。
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