1975年 - 1977年
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「ラジニカーント」の記事における「1975年 - 1977年」の解説
ラジニカーントは、私が彼にとっての学校だったと主張しています。しかし、これは私が引き込んだラジニカーントではないことを認めざるを得ません。彼は彼自身の持つ優秀さと長所によって進化したのです。私は彼にチャンスを与え、世界に彼の存在を示したのです。彼は世界に旅立ち、そして征服したのです。 —ラジニカーントについて語るK・バーラチャンダル 1975年にK・バーラチャンダルの『世にも奇妙なラーガ(英語版)』で俳優デビューした。ラジニカーントは同作でシュリヴィディヤ(英語版)演じるバイラヴィの暴力的な夫パンディヤン役を演じた。この映画は年齢差の大きい夫婦を題材としたため、公開後には物議を醸すことが想定されていた。しかし、公開後は批評家から絶賛され、第23回ナショナル・フィルム・アワード(英語版)で最優秀タミル語長編映画賞(英語版)を含む3つの賞を受賞した。ザ・ヒンドゥー(英語版)はラジニカーントについて、「新人ラジニカーントは凛々しく、そして印象的です」と批評している。 1976年にはプッタナ・カナガル(英語版)の『Katha Sangama』に出演した。ラジニカーントは映画のラストシークエンスに登場し、夫の不在時に盲目の妻を強姦する村の悪党役を演じている。同年2月にK・バーラチャンダルはテルグ語映画『Anthuleni Katha』でラジニカーントを主要キャストに起用した。タミル語映画で初めて主要キャストに起用されたのは、同年10月の『Moondru Mudichu』だった。同作での「投げたタバコを口でキャッチする」パフォーマンスは観客の間で人気を博した。同年12月には『Baalu Jenu』でヒロインを悩ます悪党ヴァース役を演じ、K・バーラチャンダルの『Avargal』やバーラティラージャ(英語版)の『16 Vayathinile』でも同様の役柄を演じている。1977年にテルグ語映画『Chilakamma Cheppindi』で初めて主演を務め、同年9月にはS・P・ムトゥラーマン(英語版)の『Bhuvana Oru Kelvi Kuri』で主要キャストを務めた。同作の成功により、ラジニカーントは1990年代までに24本のムトゥラーマン監督作品に出演している。この時期に出演した映画では、ラジニカーントは主に助演、悪役を演じた。『Gaayathri』ではポルノ写真家役、『Galate Samsara』ではキャバレーダンサーと関係を持つ既婚男性役を演じている。彼は1977年に合計15本の映画に出演した。
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1975年-1977年
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「ミッシェル・ポルナレフ」の記事における「1975年-1977年」の解説
3度目の来日公演が行なわれた。バック・バンドはイギリスのプログレ・バンド、ウォーリー(Wally)。後にウォーリーのメンバーが語るには、「どうしてポルナレフのバック・バンドを請け負ったかって? だって、日本に行ってみたかったんだもの。」 アメリカで録音された全曲英語で歌われている新作アルバム「ポルナレフ U.S.A.(原題:Michel Polnareff / Fame A La Mode)」が発売された。日本では同アルバムより「青春の傷あと (c/w 僕のレディーブルー)」がシングル・カットされて発売されている。 税金問題(前述)でフランスの地を踏めない状況にあった為に、10月26日にフランスの隣国のベルギーにて大規模なコンサートを行なうことが発表された。フランスのラジオ局RTLによって、フランスから特別列車で会場(ブリュッセルのフォレスト・ナショナル)近辺まで行ける企画がなされ、多くのフランスのファンがコンサートにやってきた(チケット総数14,000枚の半分の発売はフランスでされた)。会場への機材の到着が遅れ、開演が3時間遅れというトラブルもあったが、このコンサートは大成功に終わる。この日を最後に、ポルナレフは1979年までコンサート活動を行っていない。 また、翌日の10月27日に、ポルナレフはルクセンブルクのテレビ局 "ラジオ・テレビジョン・ルクセンブルク" でスタジオ・ライヴを行い、この映像はベルギー、ルクセンブルクとフランスで(翌年7月21日に日本でもNHKの「世界のワンマンショー」という番組で)放送されている。バック・バンドのメンバーは、セッションマンとして著名なリーランド・スカラー(ベース)、マイク・ベアード(ドラム)、当時はまだ共に無名に等しかったリー・リトナー(ギター)とデビッド・フォスター(キーボード)。 1976年1月2日、前年10月27日にルクセンブルクで収録されたスタジオ・ライブの映像がフランスで "Show Michel Polnareff" のタイトルでテレビ放送された。 アメリカ映画「リップスティック」の音楽を担当。サントラ盤のLPが発売された。日本ではポルナレフの写真が使われたジャケットに変更されていた。アレンジャーとしてポルナレフの他にデビッド・フォスターが参加。 1977年シングル「哀しみのエトランゼ (c/w 僕のマドモアゼル)」を発売。
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