1945年、ベルリン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:05 UTC 版)
「ヘルムート・ライマン」の記事における「1945年、ベルリン」の解説
1945年3月6日、ライマンは陸軍人事局長ヴィルヘルム・ブルクドルフからの電話を受け、ドレスデンの防衛を命令されたがライマンは嘲笑した。再び、ブルクドルフから連絡が来ると、ライマンはドイツ総統アドルフ・ヒトラーがライマンをベルリン防衛軍司令官に任命するよう命令を下したと伝えられた。本来、マックス・ペムゼル中将が任命される予定であったが、悪天候で飛行機が到着しなかったため任命されず、後にベンゼルは任命されなかったことを神に感謝したという。 ライマンはブルーノ・リッター・フォン・ハウエンシルト(ドイツ語版)と交代して切迫したベルリン防衛を担当することとなった。 ベルリンに到着したライマンは、前任のハウエンシルトが何も行っていなかったこと、また、ヒトラーとヨーゼフ・ゲッベルスが敗北主義者の即時処刑命令を出していることを知った。子供や老人など市民の避難計画も無く、包囲された際に必要となる食料も用意されていなかった。この多くの問題を抱えた状況で、ライマンは仕事に取り掛からねばならなかった。ライマンはベルリンにつながる橋の破壊に反対したが、それは、橋を破壊することによってソビエト赤軍の進撃を多少遅らせることよりも、そのことによってベルリンの都市基盤を破壊してしまうことを危惧したからであった。橋の破壊はベルリンに食糧不足をもたらし、ヨーロッパ有数の大都市という地位を失わせる結果となるというのが、彼の意見であった。しかし、ライマンに与えられた兵力は少なく、4月23日の時点で約9万人に過ぎなかった。しかも、その多くは経験不足で訓練も不十分な部隊であった。 伝えられているところでは、ライマンはヒトラーにベルリンの未成年者を包囲前に脱出させるよう進言したが、ヒトラーに拒絶されたという。 4月15日、ライマンは、ヒトラーが命令した焦土作戦に内密で反対行動をとっていたアルベルト・シュペーアとヴァイクセル軍集団司令官ゴットハルト・ハインリツィらと会見した。ライマンはシュペーアに同調することは拒否したが、ベルリンが破壊される前にハインリツィと会うことは約束した。ハインリツィも焦土作戦に反対であった。 4月21日までに「武装できる男性はベルリンにとどまるべし」という命令が出され、ゲッベルスの指揮下に国民突撃兵が編成された。ベルリン防衛軍司令官として、ライマンだけがその命令を免除することができた。ナチス幹部の一部は、ベルリン脱出の許可を求めてライマンの元を訪れたが、ライマンは彼らを「空理空論の戦士」と評して、2,000通以上の許可証に署名した。ライマンの参謀長ハンス・レフィオスは「ネズミは沈み行く舟から逃げていく」と述べた。 この頃、ライマンが総統地下壕内のゲッベルスの部屋の隣に司令部を置くことを拒否したため、ゲッベルスはライマンに反感を持つようになっていた。そして、ゲッベルスは同じく彼に反感を持っていたブルクドルフと共に、ライマンは防衛司令官として不適格であるとヒトラーに吹き込んでいた。 4月22日、ライマンは「敗北主義者」としてベルリン防衛軍司令官を解任され、後任にはエルンスト・ケーター(英語版)少将が任命された。エルンスト・ケーターはヒトラー暗殺未遂事件以降に任命された政治将校であった。しかしケーターがその任務を受けなかったため、同日あらためて、エーリッヒ・ベーレンフェンガー少将がヒトラー代理としてベルリン防衛軍の指揮を執ることになった。このことは、ベルリンにソビエト赤軍が侵入し始めたとき、ベルリンの防衛を管理していたのはヒトラーであったということを示している。しかし、4月23日、ヒトラーはまた考えを改め、ヘルムート・ヴァイトリングがベルリン防衛を担うこととなる。 ヴァイトリングはベルリン降伏まで戦い、ベルリン防衛軍最後の司令官となった。
※この「1945年、ベルリン」の解説は、「ヘルムート・ライマン」の解説の一部です。
「1945年、ベルリン」を含む「ヘルムート・ライマン」の記事については、「ヘルムート・ライマン」の概要を参照ください。
1945年・ベルリン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 18:06 UTC 版)
「エーリッヒ・ベーレンフェンガー」の記事における「1945年・ベルリン」の解説
第二次世界大戦末期、ベーレンフェンガーはベルリンに滞在していた。1945年4月22日、中佐であったベーレンフェンガーは、ヒトラーにより、30歳で少将に任命された。ベーレンフェンガーはベルリン防衛線で短期間であったが、ヒトラー護衛を担当した。 4月末、ベルリン防衛軍司令官は頻繁に交代した。3月初旬、ヘルムート・ライマン中将がその任務に就いていたが、4月22日、エルンスト・ケーター(英語版)と交代となった。しかしケーターは精神的な面でその任務に向いておらず、その代理としてベーレンフェンガーが職務を行った。4月23日、ヘルムート・ヴァイトリング大将が死守命令に背いたとされ、ヒトラーに銃殺命令が出された。しかし、ヴァイトリングの話を聞いたヒトラーはこれを取り消し、さらにヴァイトリングをベルリン防衛軍司令官に任命した。 このベルリンを戸惑わせた司令官の交代劇の間、ベーレンフェンガーはヒトラーの副官的位置で職務に就いていた。 以下はミュンヘベルク装甲師団の将校が書いた日記の4月26日夕方の記述から引用する。 ”空軍省からエーリッヒ・ベーレンフェンガー少将が防衛軍の司令官を解任されたというニュースが届いた。一時間後に、ヘルムート・ヴァイトリンク大将が任命されたと聞いた。ウェルナー・ムマート(ドイツ語版)予備役少将が戦車部隊を指揮するという・・・。” このような情報は、数日たってから現場に流れるようになっていた。 ベルリンの戦いが始まった4月26日、ヒトラーが直接指揮を取るために、ベーレンフェンガーは防衛区画「A」、「B」を担当することとなった。ベーレンフェンガーは、シェーンハウザー並木駅から北に向かって少なくとも2回、戦車による攻撃を行ったが、どちらも成功しなかった。2回目は5月1日に行われた。 ヒトラー死後、包囲下のベルリンからヴィルヘルム・モーンケSS少将らが脱出する際、ベーレンフェンガーはその支援を行った。5月1日、モーンケらは総統地下壕からの脱出に成功した。そこで彼らはあたかもパレードのように新しいティーガー戦車や突撃砲が高射砲塔の前に並ぶのを見たという。さらに伝えられる話では若き少将ベーレンフェンガーの姿がその居並ぶティーガーの中に居たといわれる。 5月2日から3日夜にかけて、ベーレンフェンガーはオラニエンブルクへの逃亡を試みたが、失敗したためベルリン=プレンツラウアーベルクのビール醸造所の地下室で若き妻と義理の兄弟と共に自殺した。
※この「1945年・ベルリン」の解説は、「エーリッヒ・ベーレンフェンガー」の解説の一部です。
「1945年・ベルリン」を含む「エーリッヒ・ベーレンフェンガー」の記事については、「エーリッヒ・ベーレンフェンガー」の概要を参照ください。
- 1945年、ベルリンのページへのリンク