ラジオ・ジャーナリスト
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「ハンス・フリッチェ」の記事における「ラジオ・ジャーナリスト」の解説
ルール地方のボーフム出身。第一次世界大戦に従軍後、保守派の政治家でメディアの支配者だったアルフレート・フーゲンベルクの下でジャーナリストとして働く。当時新たなメディアとして勃興しつつあったラジオの普及に関わり、1932年9月には内務省の影響下あるAG放送局(ドイツ語版)の責任者に就任した。翌年5月1日にナチスへ入党した(党員番号:2637,146)。 ヒトラー政権成立後にはヨーゼフ・ゲッベルス率いる宣伝省の新聞局長となるとともにラジオ番組でも活躍し、ナチス政権下で言論統制・報道管制の指揮を取り続けた。一時、ゲッベルスと意見の相違をきたして宣伝省から離れ、志願兵として東部戦線に出征したが、ゲッベルスに呼び戻され宣伝省・ラジオ放送局長に就任する。ゲッベルスはフリッチェを信頼するとともにその手腕を高く評価しており、フリッチェが述べる耳の痛い直言にも真摯に耳を傾けていたと言う。 戦争の末期には、耐乏のスローガンを広めていた。1942年11月には宣伝省の放送部門の責任者になり大ドイツ放送(ドイツ語版)(Großdeutscher Rundfunk)の政治部局長に就任した。 1945年、ベルリンの戦いにより戦場となったベルリンに留まり、ほぼ廃墟と化した宣伝省において最後まで職務を遂行し続けた。5月2日、ヒトラーとゲッベルスの自殺の報を受け、ベルリンに侵攻した赤軍に「降伏交渉を行なう」との名目で単身投降、捕虜となる。一時、モスクワへ送還され、ルビャンカの収容所に入れられた後、ニュルンベルクへ移された。
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