1944年6月-11月 父島方面護衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:04 UTC 版)
「隠岐 (海防艦)」の記事における「1944年6月-11月 父島方面護衛」の解説
1944年(昭和19年)6月6日、3606船団(13隻)を護衛し横浜発。第三護衛船団司令官の門前鼎少将は駆逐艦松風に将旗を掲げた。この第3606船団が、サイパン島むけ最後の船団であった。8日、神鹿丸が機関故障をおこし護衛艦1隻(天草)を附されて反転、つづいて杉山丸がアメリカ潜水艦(ホエール)の雷撃で損傷した。隠岐は対潜制圧を実施、また神鹿丸を八丈島まで護衛した。9日午前4時、今度は船団旗艦の松風が、アメリカ米潜水艦ソードフィッシュに雷撃され、轟沈した。門前少将を含め多数が戦死、残船団は父島にむかった。 6月11日、米軍機動部隊はマリアナ諸島に来襲して空襲をおこなう。サイパン島周辺の情勢や敵機動部隊の活動を考慮して船団のサイパン島行は中止され、父島で船団の再編がおこなわれた。14日、美保丸船団(4隻)を護衛し父島発。15日、ふたたびアメリカ潜水艦ソードフィッシュの雷撃により甘井子丸(貨物船、4,804トン)が沈没する。また豊川丸が浮上潜水艦を体当たりによって撃沈した(伊号第六潜水艦との同士討ち)。17日、美保丸船団は東京湾に到着した。隠岐は戊直接護衛部隊編入を解かれ甲直接護衛部隊に編入。 サイパン地上戦の経過を鑑み、小笠原諸島の戦略的価値が重要視されるようになった。またB-29邀撃のため、硫黄島の防備強化を企図した。7月3日、3701船団(7隻)を護衛し館山発。4日、八丈島着。6日、船団(4隻)を護衛し八丈島発。8日、父島着。10日、4710船団(5隻)を護衛し父島発。14日、横須賀着。 同年7月上旬、サイパン島地上戦における日本軍守備隊玉砕時に第二海上護衛隊司令部は全滅し、7月18日附で第二海上護衛隊は解隊された。隠岐は横須賀鎮守府横須賀防備戦隊に編入される。役務を佐世保鎮守府警備海防艦に定められる。22日、3720船団(芝園丸、第一南洋丸)を護衛し館山発。26日、父島着。29日、4729船団(芝園丸、陸軍徴傭船第四東海丸)を護衛し父島発。8月2日、横須賀着。 米軍機動部隊は8月4日から5日にかけて小笠原諸島に来襲し、同方面の日本軍の航空兵力や船舶は大きな被害を受けた(スカベンジャー作戦)。この被害を補充するため横須賀鎮守府は、軽巡(多摩、木曾)、第18駆逐隊(不知火、霞)、隠岐、第105号海防艦による緊急輸送作戦を実施した。8月10日、隠岐は第105号特設輸送艦を護衛し横須賀発。13日、父島着。同日、4813船団(特設運送船九州丸、第一南陽丸)を護衛し父島発。16日、横須賀着。8月19日から9月1日まで横須賀海軍工廠で修理を行う。隠岐修理中の8月31日から9月2日にかけて、米軍機動部隊は小笠原諸島や硫黄島に来襲し、空襲や艦砲射撃をおこなった。また米軍は占領したサイパン島やテニアン島の飛行場を整備し、大型爆撃機による哨戒や空襲をおこなうようになった。潜水艦と航空機による攻撃で、日本軍の輸送船と護衛艦艇に被害が続出した。 9月5日、3901船団(特設運送船九州丸)を護衛し館山発。6日、八丈島着。7日、3901船団を護衛し八丈島発。10日父島着。11日、4910乙船団(八祥丸)を千鳥と護衛し父島発。同日、父島よりの方位280度130カイリの地点でB-24爆撃機3機の空襲を受け八祥丸が航行不能となったため、乗員と便乗者を救助のうえ同船を砲撃により処分。13日、横須賀着。21日、3920船団(い号米山丸、特設捕獲網艇興海丸)を護衛し館山発。26日、父島着。同日、4926船団(特設運送船い号壽山丸)を護衛し父島発。30日、横須賀着。 10月11日、3009船団(睦月丸)を第51号駆潜艇と護衛し横須賀発。16日、父島着。19日、4019船団(昭東丸)を護衛し父島発。23日、横須賀に到着し横須賀海軍工廠で訓令による兵器換装工事を行う。11月8日、工事終了。 11月13日、3111船団(如月丸、特設運送船北開丸)を護衛し館山発。16日、聟島列島北之島よりの方位5度、80カイリの地点で如月丸がアメリカ潜水艦スキャバードフィッシュの攻撃を受け被雷沈没したため、如月丸の乗員33名を救助。如月丸の乗員を救助後に空襲を受けたが被害無し。17日、母島着。18日、4118船団(特設運送船九州丸、同北開丸)を護衛し母島を出発する。21日、船団は八丈島よりの方位82度、110カイリの地点で再度スキャバードフィッシュの攻撃を受ける。隠岐は艦前部に被雷して艦橋より前の艦首を喪失した。北開丸は沈没した。同時期、古谷卓夫中佐を指揮官とする対潜掃蕩小隊(海防艦3隻、駆潜艇4隻)が横須賀を出動し、小笠原方面で対潜掃蕩に従事していた。隠岐の救援のため、鳥島沖で対潜掃討中の第4号海防艦と第12号海防艦らが派遣される。隠岐は被雷後漂流し消息不明となっていたが、22日に館山海軍航空隊の捜索機により発見され、23日には別任務で出撃していた掃蕩隊の第56号海防艦に発見された。同日、救援のため派遣された海防艦らとも会合し、隠岐は第12号海防艦に曳航されて第4号海防艦らの護衛を受け、25日、横須賀着。横須賀海軍工廠に入渠し1945年3月まで復旧修理を行う。修理の際、隠岐の艦首は直線を多用した簡易なものに作り替えられた。
※この「1944年6月-11月 父島方面護衛」の解説は、「隠岐 (海防艦)」の解説の一部です。
「1944年6月-11月 父島方面護衛」を含む「隠岐 (海防艦)」の記事については、「隠岐 (海防艦)」の概要を参照ください。
- 1944年6月-11月 父島方面護衛のページへのリンク