1944年7月-10月 大湊警備府とは? わかりやすく解説

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1944年7月-10月 大湊警備府

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 17:48 UTC 版)

能美 (海防艦)」の記事における「1944年7月-10月 大湊警備府」の解説

1944年昭和19年7月2日能美はキ203船団護衛して稚内出発した5日得撫島着。6日引き続き復航船団護衛して得撫島発。8日稚内帰着同日大湊回航し翌9日到着16日能美大発曳航して大湊発。17日稚内着。 7月18日第二海上護衛隊解隊される。これにともない横須賀鎮守府在籍海防艦福江天草能美の3隻のうち、能美福江大湊警備府警備海防艦定められる。翌19日福江宗谷防備部隊指揮下にはいる。能美福江は、当時大湊警備府に2隻だけ配備され海防艦として、千島列島での船団護衛任務従事した20日キ102船団護衛して稚内発。25日同船団を護衛して稚内帰着その後大泊回航24日軍隊区分大湊警備府海上護衛部隊に配置27日午後第一水雷戦隊司令官木村昌福少将麾下の第7駆逐隊(曙、潮)は船団護衛中に潜水艦発見報告した能美急遽大泊出動し対潜掃蕩をおこなう。しばらくして誤認判定され警戒態勢解除された。また第7駆逐隊護衛していた利山丸が機関故障おこして単独小樽に引き返すことになり、能美は潮から利山丸護衛引き継ぐ手筈であった高速駆逐艦にとって、低速輸送船護衛やりにくい任務であった7月29日能美樺太オハ油田目指すオハ船団護衛して大泊出撃した。8月1日オハ出港した海軍配当栄丸は能美船団合流予定だったが、同船濃霧により北知床岬付近座礁した宗谷防備隊からは海防艦福江派遣される能美船団護衛続行し、一旦稚内回航した。5日夜、能美海軍徴傭那須丸(救難船)と同金津丸給油船)を護衛して遭難現場へ向かう。能美艦長栄丸救難指揮官指定された。10日榮丸から金津丸への重油移載が終了13日前日深夜に敵潜水艦探知したため能美対潜掃蕩おこない救難部隊は一旦退避した作業再開後の14日榮丸の船体切断後に後部のみ浮揚した。これを派遣され曳船2隻に曳航させ愛郎湾まで護衛17日に愛郎湾で榮丸を第五十二掃海隊に引渡した能美補給のため大泊移動した21日オハ向かった金津丸を護衛するため、大泊発。23日オハ沖に到着し金津丸を護衛し南下27日より、能美福江宗谷防備部隊直率部隊より除かれる能美福江北東方面艦隊協力し北方輸送従事した千島方面輸送担当する千島方面根拠地隊には、第1駆逐隊野風波風神風)や海防艦2隻(国後八丈)等が所属していた。 9月5日能美駆逐艦波風(第1駆逐隊)は、キ505船団護衛して小樽発。8日夜、僚艦波風アメリカ潜水艦シール雷撃され船体切断され航行不能になった能美波風周囲警戒し対潜制圧をおこなう。大湊警備府波風救援駆逐艦野風などを、キ505船団護衛海防艦国後を、それぞれ派遣した。だがこの間、キ505船団無防備になっていた。その後波風駆逐艦神風艦長春日少佐)に曳航され、駆逐艦野風海防艦八丈および福江途中から護衛協力)等に護衛され小樽帰投した。 翌9月9日朝、シールはキ505船団襲撃し被雷した昭南丸は沈没した10日朝、能美昭南遭難現場通過したが、生存者発見できなかった。護衛なくなった505船団4隻は樺太敷香退避していたので、能美国後同地移動する能美は、大発動艇脱出していた昭南生存者収容した15日能美国後引き続き505船団護衛して敷香発。22日幌筵島片岡湾着。24日、ヲ403船団護衛して片岡湾発。国後能美には、便乗18名および捕虜4名と警戒員5名が分乗した。同方面にはアメリカ潜水艦シーレイヴンが行動しており、すでに輸送船利山丸を撃沈していた。 26日朝、国後能美護衛していたヲ403船団は.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯47度7分 東経15135分 / 北緯47.117度 東経151.583度 / 47.117; 151.583地点において濃霧により分散してしまった。能美行方不明になった船団捜索をおこなう。同26日深夜から27日未明能美択捉島北方北緯45度44東経14841分 / 北緯45.733度 東経148.683度 / 45.733; 148.683地点で敵潜水艦交戦戦死者7名、重軽傷16名を出した多数被弾により、応急修理の上大湊回航されることになった29日小樽着。10月1日大湊回航のため小樽発。2日大湊着。同日より大湊修理おこなった

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