1944年7月-10月 大湊警備府
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「能美 (海防艦)」の記事における「1944年7月-10月 大湊警備府」の解説
1944年(昭和19年)7月2日、能美はキ203船団を護衛して稚内を出発した。5日、得撫島着。6日、引き続き同復航船団を護衛して得撫島発。8日、稚内に帰着。同日、大湊へ回航し翌9日に到着。16日、能美は大発を曳航して大湊発。17日、稚内着。 7月18日、第二海上護衛隊は解隊される。これにともない横須賀鎮守府在籍の海防艦福江、天草、能美の3隻のうち、能美と福江は大湊警備府の警備海防艦に定められる。翌19日、福江も宗谷防備部隊の指揮下にはいる。能美と福江は、当時の大湊警備府に2隻だけ配備された海防艦として、千島列島での船団護衛任務に従事した。 20日、キ102船団を護衛して稚内発。25日、同船団を護衛して稚内に帰着。その後大泊へ回航。24日、軍隊区分大湊警備府海上護衛部隊に配置。27日午後、第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将)麾下の第7駆逐隊(曙、潮)は船団護衛中に敵潜水艦発見を報告した。能美は急遽大泊を出動し、対潜掃蕩をおこなう。しばらくして誤認と判定され、警戒態勢は解除された。また第7駆逐隊が護衛していた利山丸が機関故障をおこして単独で小樽に引き返すことになり、能美は潮から利山丸護衛を引き継ぐ手筈であった。高速の駆逐艦にとって、低速の輸送船護衛はやりにくい任務であった。 7月29日、能美は樺太のオハ油田を目指すオハ行船団を護衛して大泊を出撃した。8月1日、オハを出港した海軍配当船柏栄丸は能美船団と合流予定だったが、同船は濃霧により北知床岬付近で座礁した。宗谷防備隊からは海防艦福江が派遣される。能美は船団護衛を続行し、一旦稚内に回航した。5日夜、能美は海軍徴傭船那須丸(救難船)と同金津丸(給油船)を護衛して遭難現場へ向かう。能美艦長は柏栄丸救難の指揮官に指定された。10日、柏榮丸から金津丸への重油移載が終了。13日、前日深夜に敵潜水艦を探知したため能美は対潜掃蕩をおこない、救難部隊は一旦退避した。作業再開後の14日、柏榮丸の船体切断後に後部のみ浮揚した。これを派遣された曳船2隻に曳航させ愛郎湾まで護衛、17日に愛郎湾で柏榮丸を第五十二掃海隊に引渡した。能美は補給のため大泊へ移動した。21日、オハへ向かった金津丸を護衛するため、大泊発。23日、オハ沖に到着し、金津丸を護衛し南下。27日より、能美と福江は宗谷防備部隊直率部隊より除かれる。能美と福江は北東方面艦隊に協力し、北方輸送に従事した。千島方面輸送を担当する千島方面根拠地隊には、第1駆逐隊(野風、波風、神風)や海防艦2隻(国後、八丈)等が所属していた。 9月5日、能美と駆逐艦波風(第1駆逐隊)は、キ505船団を護衛して小樽発。8日夜、僚艦波風はアメリカ潜水艦シールに雷撃され、船体を切断されて航行不能になった。能美は波風の周囲を警戒し対潜制圧をおこなう。大湊警備府は波風救援に駆逐艦野風などを、キ505船団護衛に海防艦国後を、それぞれ派遣した。だがこの間、キ505船団は無防備になっていた。その後、波風は駆逐艦神風(艦長春日均少佐)に曳航され、駆逐艦野風や海防艦八丈および福江(途中から護衛に協力)等に護衛され、小樽に帰投した。 翌9月9日朝、シールはキ505船団を襲撃し、被雷した昭南丸は沈没した。10日朝、能美は昭南丸遭難現場を通過したが、生存者を発見できなかった。護衛のなくなったキ505船団4隻は樺太敷香に退避していたので、能美と国後は同地に移動する。能美は、大発動艇で脱出していた昭南丸生存者を収容した。15日、能美と国後は引き続きキ505船団を護衛して敷香発。22日、幌筵島片岡湾着。24日、ヲ403船団を護衛して片岡湾発。国後と能美には、便乗者18名および捕虜4名と警戒員5名が分乗した。同方面にはアメリカ潜水艦シーレイヴンが行動しており、すでに輸送船利山丸を撃沈していた。 26日朝、国後と能美が護衛していたヲ403船団は.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯47度7分 東経151度35分 / 北緯47.117度 東経151.583度 / 47.117; 151.583地点において濃霧により分散してしまった。能美は行方不明になった船団の捜索をおこなう。同26日深夜から27日未明、能美は択捉島北方北緯45度44分 東経148度41分 / 北緯45.733度 東経148.683度 / 45.733; 148.683地点で敵潜水艦と交戦、戦死者7名、重軽傷16名を出した。多数の被弾により、応急修理の上で大湊に回航されることになった。29日、小樽着。10月1日、大湊へ回航のため小樽発。2日、大湊着。同日より大湊で修理をおこなった。
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