1944年7月-11月 父島方面護衛
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「第四号海防艦」の記事における「1944年7月-11月 父島方面護衛」の解説
1944年7月7日、横須賀鎮守府作戦指揮下に編入。8日、軍隊区分甲直接護衛部隊に配置。14日、3714甲船団(4隻)を護衛して父島へ向け館山発。父島へ向け航行中の15日、第三海上護衛隊に編入。19日、父島着。20日、第2号輸送艦を護衛して硫黄島へ向かい、第2号輸送艦の揚塔後は横須賀へ向かう。24日、横須賀着。25日、軍隊区分乙直接護衛部隊に配置。29日、3729船団(6隻)を護衛して硫黄島へ向け館山発。 8月2日、硫黄島着。4日、復航の4804船団(5隻)を護衛して硫黄島発。同日、父島南方でスカベンジャー作戦のため来攻したアメリカ艦上機の攻撃やアメリカ海軍水上部隊との交戦により船団は全滅した。本艦は7日、横須賀に帰投した。10日、軍隊区分甲直接護衛部隊に配置。15日、3815船団(2隻)護衛して母島へ向け館山発。21日、母島着。23日、復航船団を護衛して母島発。27日、横須賀着。 9月9日、2D型戦時標準船生田川丸(東洋海運、2,300トン)、重油船公称第3998号からなる第3908船団を第44号駆潜艇、特設駆潜艇第6拓南丸(日本海洋漁業、343トン)と共に護衛して父島へ向け館山発。14日、父島着。14日、復航の4913船団を護衛して横須賀へ向け父島発。17日0425、御蔵島沖で第6拓南丸が機関故障を起こし漂流。0700に海防艦天草が館山を出港し、救援に向かう。0745、三宅島沖で第6拓南丸は第44号駆潜艇と会合。1015、復旧した第6拓南丸は伊豆大島沖で天草と会合。1700、天草と第6拓南丸は横須賀に到着。先行して船団も同日横須賀に到着した。横須賀到着後は10月8日まで、横須賀海軍工廠で兵器装備工事を行う。 10月8日、館山へ回航。10日、3007船団(1隻)を護衛して父島へ向け館山発。14日、父島着。15日、復航4015船団(1隻)を護衛して父島発。19日、横須賀に帰投。同日から11月2日まで、横須賀海軍工廠で訓令工事を行う。 11月2日横浜へ、3日には館山へ回航。4日、3103船団(4隻)を護衛して父島へ向け館山発。8日、復航4108船団(4隻)を護衛して父島発。11日、上空警戒機からの報告で潜水艦に対する警戒を強めていたところ、八丈島北方沖で自艦の右前30度の方向に潜水艦を探知した。この潜水艦はアメリカ潜水艦スキャンプで、スキャンプは当時、油を曳いて潜航中であった。第4号海防艦は輸送船を退避させたのちスキャンプに向首していった。目標まで1,000メートルになったとき、突然スキャンプから2本の魚雷が発射された。第4号海防艦は魚雷を回避し、爆雷攻撃を実施。爆雷投下点に目印の発煙筒と旗を投下し、3度にわたって合計70発の爆雷を投下。この攻撃でスキャンプを撃沈した。攻撃後、10数メートルはあろう大きな気泡が何個もわき出し、また重油も大量に湧出してきた。探信の結果、なんら反応がなかった。13日、横須賀に帰投。15日、これまでの潜水艦4隻撃沈の功により、海上護衛総司令部司令長官野村直邦中将から海防艦単艦として初めての感状を授与された。以後本艦の乗員は、同じく潜水艦4隻撃沈の功を挙げた第6号海防艦の乗員とともに、他艦艇の教練の際に指導を受け持つことが多くなる。16日、敵潜掃蕩隊が編成され、本艦は第42号駆潜艇、第52号駆潜艇とともに第二小隊に配置。17日、鳥島沖の掃蕩担任海域へ向け出撃する。対潜掃蕩中の22日未明、対潜掃蕩を中止して隠岐の救難に向かう。本艦は23日朝に隠岐と会合し、隠岐と隠岐を曳航する第12号海防艦の護衛にあたる。25日、横須賀に帰投。横須賀帰投後、横須賀海軍工廠で修理を行う。
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