1944年7月-1945年1月 父島方面護衛
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「第十二号海防艦」の記事における「1944年7月-1945年1月 父島方面護衛」の解説
1944年7月2日、父島沖に到着し対潜掃蕩を行う。5日、長浦に帰着。10日、3710船団(父島向け3隻、硫黄島向け3隻、計6隻)を護衛して横須賀発。12日、船団は二手に分かれたが、本艦は父島向け3隻の護衛を続け、14日父島着。16日、4716船団(3隻)を護衛して横須賀へ向け父島発。18日、横須賀鎮守府に編入され、役務を呉鎮守府警備海防艦に定められる。19日、長浦着。25日、軍隊区分乙直接護衛部隊に配置。29日、3729船団(6隻)を護衛して硫黄島へ向け館山発。 8月2日、硫黄島着。4日、復航の4804船団(5隻)を護衛して硫黄島発。同日、父島南方でスカベンジャー作戦のため来攻したアメリカ艦上機の攻撃やアメリカ海軍水上部隊との交戦により船団は全滅した。護衛艦艇は7日までに東京湾に帰投した。10日、軍隊区分甲直接護衛部隊に配置。15日、3815船団(2隻)護衛して母島へ向け館山発。21日、母島着。23日、復航船団を護衛して母島発。27日、横須賀着。 9月6日、3905甲船団(2隻)を護衛して父島へ向け館山発。同日、父島北西でアメリカ潜水艦の攻撃を受けて船団は全滅した。本艦も損傷し、14日横須賀に帰投後24日まで横須賀海軍工廠で修理を行った。24日、3923船団(3隻)を護衛して父島へ向け横須賀発。29日父島着。30日、復航4930船団(2隻)を護衛して横須賀へ向け父島発。10月3日、横須賀に帰投。 10月4日から24日まで、横須賀海軍工廠で修理と整備を行う。24日、館山へ回航。25日、3024船団(父島向け1隻、母島向け1隻、計2隻)を護衛して館山発。本艦は母島向け船団を護衛して分離。29日母島着。30日、復航4030船団(1隻)を護衛して母島発。 11月2日、下田に仮泊。その後浦賀、次いで横須賀へ回航。16日、敵潜掃蕩隊が編成され、本艦は第44号駆潜艇、第51号駆潜艇とともに第一小隊に配置され、掃蕩隊指揮官を第12号海防艦長に指定される。同日、鳥島沖の担任海域へ向け出撃。対潜掃蕩中の22日未明、対潜掃蕩を中止し隠岐の救難に向かう。本艦は23日朝に隠岐と会合し、第4号海防艦らの護衛を受け、隠岐を曳航して横須賀へ向かう。25日、横須賀に帰投。同日、横須賀防備戦隊の旗艦に指定される。横須賀帰投後、12月9日まで横須賀海軍工廠で訓令工事を実施。 12月12日、3209船団(4隻)護衛のため横須賀発。東京湾口で船団と合同し父島へ向かう。16日、父島着。17日、復航4217船団(3隻)を護衛して横浜へ向け父島発。22日、横須賀に帰着。27日、3226船団(4隻)を護衛して父島へ向け横須賀発。31日、父島着。 1945年1月1日、復航4101船団(4隻)を護衛して父島発。6日、館山に帰着し横須賀へ回航。16日、3115船団(4隻)を護衛して父島へ向け館山発。19日、父島着。20日、復航4119船団(2隻)を護衛して館山へ向け父島発。22日、館山に帰着。以後、2月25日までの行動は不明。
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