1944年7月から1945年3月
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「留守第51師団」の記事における「1944年7月から1945年3月」の解説
7月6日の昭和19年軍令陸甲第77号により、第81師団は動員されて管区から離れ、留守第51師団がふたたび臨時動員されて宇都宮師管を管轄することになった。動員完結は7月10日から12日と定められた。 連合軍の本土上陸が近づいているという認識のもと、東部軍は沿岸防備のための築城を進め、留守第51師団に対しても10月13日に臨時砲台の築城を命じた。予定地は茨城県の磯浜(現在の大洗町)、平磯、磯崎(以上2箇所は現在のひたちなか市)、水戸付近、久慈 (現在の日立市)で、水戸市に近い海沿いに集中した。県南部、鹿島灘に面した海浜には、第44師団が築城することになっていた。 1945年(昭和)3月25日に第12方面軍が発した命令により、留守51師団の作戦地域は東茨城郡以北の茨城県とされ、水戸周辺とその沿岸地域への速やかな進出を求められた。 1945年2月9日制定(10日公布)の昭和20年軍令陸第2号で、臨時的性格の留守師団をやめ、常設の師管区部隊をおく制度が定められた。同日の軍令陸甲第25号により、留守第51師団司令部が4月1日をもって宇都宮師管区司令部に改称することになった。2月28日の軍令陸甲第34号により、師管区部隊の編成と関連濡部隊の復員が命じられた。宇都宮師管区部隊が発足した4月9日までに復員した。水戸周辺の防衛は新設の第151師団が引き継いだ。
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